鎌倉・建長寺の塔頭(前半)~西来庵・天源院・正統院・龍峰院・回春院・禅居院~

鎌倉・建長寺の塔頭(前半)~西来庵・天源院・正統院・龍峰院・回春院・禅居院~

現在の建長寺には、境外を含め計十二院の塔頭があります。江戸時代後期・天明七年(1787年)正月時点の建長寺末寺帳には、計二十六ケ院(当時は常楽寺・海蔵寺・明月院・報国寺も塔頭にカウント)の塔頭が記載されていますので数を減らしてはいますが、鎌倉では円覚寺に次ぐ数を誇ります。なお同じ天明七年には、過去に廃絶した塔頭二十九ケ院の書上げも作成されており、両方を足し合わせるとこれまで建長寺の塔頭を名乗った寺院の累計は五十五ケ院となる計算です。「建長寺の塔頭(前半)」の今回は、現存する塔頭の中から西来庵・天源院・正統院・龍峰院・回春院・禅居院をご紹介します。

なお建長寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒建長寺

境内図

西来庵(せいらいあん)

嵩山門の坂を上った左手にある西来庵は、建長寺開山・蘭渓道隆の塔所として開山示寂後に創建された、開山を祀るための「聖地」であり、塔頭の中でも別格の存在です。境内には昭堂・開山堂・開山墓塔が建ち、現在は禅堂(大徹堂)を中心とした臨済宗建長寺派の専門道場となっています。雲幽筆の「西来庵」の額が掲げられた中門(県文)は、「仏殿」「唐門」と同じく正保四年(1647年)に、徳川秀忠夫人・崇源院の御霊屋から移築した平唐門です。

山号 嵩山(すうざん)
開山 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)
大覚禅師・大覚派
嘉定6年(1213年)-弘安元年(1278年)
寺宝・文化財 昭堂(重文)、中門(県文)、蘭渓道隆墓所(重文)、無学祖元墓所、蘭渓道隆坐像(木像漆塗玉眼・重文)、木造乙護童子立像、木造聖徳太子立像

天源院(てんげんいん)

方丈の西北の石段上にある天源院は、建長寺第十三世・南浦紹明の塔所として示寂後二十数年してから創建されました。南浦紹明は駿河の出身で、蘭渓道隆に学んだ後渡宋し、虚堂智愚の下で大悟しました。帰朝後は長く九州に住していましたが、最晩年の1307年に鎌倉入りし、北条貞時の帰依を受け建長寺住持となりました。天源院は、その後小田原北条氏の保護を受けるなどして現在に続いています。

山号 雲閑山(うんかんざん)
御本尊 十一面観音菩薩
開山 南浦紹明(なんぽじょうみょう)
大応国師・大応派
嘉禎元年(1235年)-延慶元年(1308年)
寺宝・文化財 小鐘(天和三年(1683年)銘)

正統院(しょうとういん)

現在の正統院は、半僧坊に向かう参道が東に折れるところにある北向きの石段を、そのまま真っ直ぐ上った正面にありますが、当初は、建長寺第十四世・高峰顕日の塔所として正和五年(1316年)に浄智寺内に「正統庵」として創建されました。
その後、夢想疎石の働きかけにより建武二年(1335年)に無学祖元の塔所「正続庵」が建長寺から円覚寺に移転され「正続院」となるに及んで、建長寺の旧「正続庵」跡に、浄智寺にあった高峰顕日の塔所「正統庵」が移転され、建長寺塔頭となり後に「正統院」を名乗るようになりました。
南浦紹明と並ぶ「天下の二甘露門」と称された高峰顕日は、無学祖元より直接に法語と伝法衣を授かった仏光派・本流として、その門下に夢窓疎石をはじめとする錚々たる禅匠達を輩出しました。晩年、鎌倉の浄妙寺・浄智寺・建長寺等の住持を務めましたが、長らく下野国・雲厳寺を活動の拠点としてきたこともあり、そちらで示寂しました。なお正統院には、高峰顕日の開山塔がありますが、高峰顕日が後嵯峨天皇の皇子であることから宮内庁が管理されているそうです。

山号 天津山(てんしんさん)
御本尊 文殊菩薩
開山 高峰顕日(こうほうけんにち)
仏国国師・仏光派
仁治二年(1241年)- 正和五年(1316年)
寺宝・文化財 高峰顕日坐像(正和四年(1315年)仏師院恵・作、重文)

龍峰院(りゅうほういん)

天源院に隣接する龍峰院は、建長寺第十五世・約翁徳倹の退居所として徳治二年(1307年)に北条貞時により創建され、現在は鎌倉三十三観音霊場29番札所をお務めです。約翁徳倹は、鎌倉の孤児でしたが蘭渓道隆の童役となり、宋に渡った8年間を除き常に蘭渓道隆に随侍し続けた方です。蘭渓道隆・直系の建長寺主流派・大覚派のリーダーとして、鎌倉では建長寺を始め東勝寺・禅興寺・浄明寺、京都では建仁寺の住持を務め、最後は「五山の上」京都・南禅寺に住して示寂しました。その為、南禅寺・牧護庵も約翁徳倹の塔所とされています。

山号 蓬莱山(ほうらいさん)
御本尊 聖観音菩薩
開山 約翁徳倹(やくおうとくけん)
仏燈国師・大覚派
寛元二年(1244年)- 元応二年(1320年)
寺宝・文化財 御本尊・木造聖観音菩薩坐像(玉眼寄木造、仏師運朝・作、市文)、約翁徳倹坐像(市文)、秘仏・木造地蔵菩薩像

回春院(かいしゅんいん)

建長寺境内の最奥にある回春院は、建長寺第二十一世・玉山徳璇の塔所として創建されました。玉山徳璇は信濃の出身で、若年より蘭渓道隆に師事してその法を嗣ぎ、陸奥の国・大禅寺の開山となって後、建長寺の住持に迎えられました。回春院は、円覚寺・続燈庵と並び関東の禅林印刷事業の中心的存在で、建長寺二十九世・竺仙梵僊(じくせんぼんせん)に印刷技術を学んだ東岡希杲(とうこうきこう)は「地蔵本願経」などを出版しました。なお東岡希杲が活躍した頃は「回春庵」と呼ばれており、回春院の亀池の脇を進んだずっと奥(鶴岡八幡宮の敷地に接した場所)にあったそうです。現在の回春院墓地には作家の葛西善蔵、五味康祐の墓があります。

山号 幽谷山(ゆうこくさん)
御本尊 文殊菩薩
開山 玉山徳璇(ぎょくさんとくせん)
仏覚禅師・大覚派
建長七年(1255年)- 建武元年(1334年)
寺宝・文化財 御本尊・木造文殊菩薩坐像、玉山徳璇坐像、木造韋駄天立像

禅居院(ぜんきょいん)

禅居院は、北条高時の招請に応え中国・元より来日した「清拙正澄(せいせつしょうちょう)」(諡号・大鑑禅師)の鎌倉における塔所として元弘三年(1333年)に開創された建長寺の塔頭で、天下門前の県道を渡った反対側(南側)にあります。大鑑禅師 が寂し荼毘に付された京都・建仁寺の禅居庵が「西禅居」とされるのに対し、建長寺の禅居院は「東禅居」と呼ばれています。
大鑑禅師は、禅僧が守るべき規範及び儀規である「清規(しんぎ)」に精通し、唐の名僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)が定めた「百丈清規」をもとに、日本の実情に即した 「大鑑清規」を著しました。また建長寺の他、浄智寺、円覚寺、建仁寺、南禅寺の住持も歴任するなど臨済宗の中で重きを成し、禅居院は大鑑派と呼ばれるその法統の東の拠点と位置付けられています 。

なお禅居院のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等の詳細につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒禅居院

また禅居院の境内の様子をご紹介した投稿記事があります。
⇒禅居院◆鎌倉・建長寺・境内散歩◆


山号 石屏山(せきびょうざん)
御本尊 聖観音菩薩
開山 清拙正澄(せいせつしょうちょう)
大鑑禅師・大鑑派
咸淳十年(1274年) – 暦応二年(1339年)
寺宝・文化財 御本尊・木造聖観音菩薩半跏像(県文)、木造摩利支天坐像

最後までご覧いただきありがとうございました。次回は、残りの六ケ院の塔頭をご紹介します。