佐竹寺(北向観音)◆坂東三十三観音霊場(第22番)参拝◆

佐竹寺(北向観音)◆坂東三十三観音霊場(第22番)参拝◆

茨城県常陸太田市天神林町にある坂東三十三観音霊場・二十二番札所・妙福山明音院佐竹寺は、戦国期、東関東の雄として存在感を示した佐竹家の菩提寺として知られた寺院で、開創当初は律宗の寺院で、永延二年(988年)に真言宗に転じて明音院を称し、現在は真言宗豊山派に属しています。
開創時期につきましては、正徳四年(1714年)の寺記によれば大同二年(807年)徳一上人の開創とされていますが、沙門亮盛が明和八年(1771)年に刊行した坂東三十三観音巡礼のバイブル「三十三所坂東観音霊場記」では、花山院が坂東巡礼の途上、元蜜上人に命じて寛和元年(985年)に建立させたとあります。
建立当初は現在地・天神林の北西、鶴ケ池を望む観音山(洞崎の峰)にあって観音寺と称し、源昌義がこの地で二十尋(約37m)に「節」がただ1つしかない竹を見つけ「佐竹氏」を名乗った平安末期以降、佐竹一族の祈願所として長く栄えました。
「佐竹寺」を称したのは、天文十二年(1543年)に兵火に遭い焼失した旧地の堂宇を、佐竹義昭が現在の場所に再建した天文十五年(1546年)のことで、最盛期には宝蔵院・歓喜院など六支院・三坊を有するほどになりました。しかし江戸期に入ると、佐竹氏の出羽国久保田移封に伴い衰退し、明治の廃仏毀釈の影響もあって昭和24年(1949年)に高橋隆宥師が入山するまで無住となるなど荒廃してしまいました。その後は、本堂・仁王門の改修等、少しづつ境内の整備を進めていらっしゃいます。

なお佐竹寺(佐竹観音)のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒佐竹寺へ

佐竹寺(佐竹観音)の魅力

◎「節」がただ1つしかない竹に纏わる源氏の名族・佐竹氏の由来

◎安土桃山期のつくりを残す重要文化財の本堂

◎吾妻鏡にも記録が残る源頼朝より拝領の「月印に五本骨扇」の旗印

境内図

仁王門

旧仁王門は、宝永五年(1705年)に相模国浦賀の石龍坊が全国より浄財を集めて建立したものですが、昭和15年(1940年)に焼失してしまいました。現在の仁王門は昭和16年(1941年)に再建されたもので、平成23年(2011年)の東日本大震災で受けた被害も平成26年(2014年)に修復されております。正面に掲げられた赤月印に五本骨扇の印は、文治五年(1189年)の藤原泰衝征伐の折、源氏本流以外に使用が禁じられていた無文の白旗を源氏傍流の佐竹隆義が掲げているのを、源頼朝が見とがめて、代わりに与えたものとされています。

こちらは、坂東三十三観音霊場第二十二番の札所石標です。

仁王門に安置されている金剛力士(仁王)像は宝永年間(1704~1711年)の作とされており、昭和15年(1940年)の火災に際しても生き残りました。その後、東日本大震災で被災しましたが、平成28年(2016年)に修復を終えています。

こちらは、修復前の仁王門の鬼瓦です。

手水舎

大銀杏

月印に五本骨扇を模った池です。

観音堂

佐竹義昭が現所に佐竹寺を再建した天文十五年(1546年)に、馬坂城(佐竹氏発祥の地)の鬼門除けに建てたご本堂(観音堂)が現在も残されており、国の重要文化財に指定されています。珍しく北向きに建てられたご本堂は桁行五間、梁間五間の寄棟造で、正面に唐破風、周囲に「こけら葺」の裳階(もこし)が巡らされています。また茅葺屋根としては全国でも三番目の規模を誇ります。元禄年間(1688~1704年)、徳川光圀公の時代には、佐竹色を一掃するため内陣の柱、床板を取り除き土間とするなど大改造されました。
ご本尊は、聖徳太子が造り花山法皇が念持仏としたという十一面観音菩薩で、脇侍に不動明王と毘沙門天が祀られています。

左右の石灯籠は、東日本大震災で倒壊しておりましたが、無事再建されました。
ご本堂の手前に赤い点々が写っておりますが、これはずらりと並んだお地蔵様の赤い前掛けです。またご本堂に向かって左手にお稲荷様の幟が見えますが、その奥に稲荷堂があります。

ご本堂側面からの写真です。丸窓の中に正面の火灯窓が見えています。なんとなく不思議な構図です。

納経所

ご朱印は、こちらで頂けます。

馬力神

常陸国は、古来より馬産の盛んな地域でしたので、馬の霊を祭る石碑をよく見かけます。

最後までご覧いただきありがとうございました。現在、佐竹寺境内は撮影禁止となっておりますので、禁止前に撮影した写真を利用して編集してみました。