金沢八景・称名寺◆境内散歩(その3)◆金堂・釈迦堂・鐘楼・北条実時墓所・八角堂等

金沢八景・称名寺◆境内散歩(その3)◆金堂・釈迦堂・鐘楼・北条実時墓所・八角堂等

称名寺の往年の七堂伽藍の伝統を今に引き継ぐ建物が「金堂」です。所蔵設備が整った近代的な金沢文庫が成立し貴重な文化財が預託されるまでの長い年月、堂内には、称名寺に代表される金沢の諸寺の歴史が凝縮された仏・諸像が安置されてきました。金堂の東隣には、江戸期に建立された「釈迦堂」が並び、金沢八景「称名の晩鐘」で詠われた梵鐘(重文)が今も残る「鐘楼」、御朱印所となっている「庫裏」と共に、現在の称名寺の中心となる堂宇群を形成しています。またその背後の金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)には、八角堂・北条実時墓所を結んだお手軽な縦走コースが整備され「称名寺市民の森」として親しまれています。

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境内図

金堂

現在の称名寺の堂宇は、ほぼ阿字ケ池の北側にまとまっています。 下の写真では、左より金堂、釈迦堂、鐘楼となっています。

下の写真は、大正期に裏手の稲荷山あたりから境内を俯瞰したもので、右端に阿字ケ池、その左横に金堂、釈迦堂が並んでいます。全盛期には雲堂・庫院・無常院等が並んでいた写真中央部左手あたりは田地になっています。

称名寺の金堂の場所には、もともと文永8年(1271)に称名寺の末寺となった常福寺の「阿弥陀堂」を移築した「弥勒堂」があり、三代目金沢貞顕の代に修理・改造され「金堂」となりました。現在の建物は、天和元年(1681年)に改築されたものです。本堂を「金堂」と呼ぶのは、平安初期以前に伽藍を整備した大寺院であることが多く、鎌倉期に創建された寺院で本堂を「金堂」と呼ぶケースはあまりありません。

正面左斜め前から見ますと、火灯窓や小さな打鐘があるあたり、どことなく禅宗風の造りとなっています。

弥勒菩薩立像(重要文化財)

称名寺の名称は正式には「金沢山彌勒院称名寺」であり、院号「彌勒院」は、ご本尊の弥勒菩薩立像(国重文)に由来します。弥勒菩薩立像は、北条実時の発願により弘安元年(1278年)頃に造立され、称名寺のご本尊として金堂の前身となる弥勒堂に安置されました。真言律宗では総本山の西大寺などで弥勒菩薩をご本尊としていますが、関東で弥勒菩薩をご本尊とする寺院は少数派です。

弥勒菩薩立像(金沢文庫資料より)

長浜観音

長浜観音は、長浜の漁師が海から引き揚げたもので「貝付観音」とも呼ばれていました。もともと長浜の「長浜山慈眼院福聚海寺」にあったのですが、廃寺となり「長浜山慈眼寺」に安置されていました。昭和十年(1935年)に称名寺の背後にある金沢山頂に八角堂(観音堂と呼ばれていました)が建てられると一時期そちらに移されましたが、現在では金堂に安置されています。

長浜観音(金沢文庫資料より)

十一面観音立像及び両脇侍(不動明王・毘沙門天立像)

かつて称名寺赤門に向かって右手にあった海岸寺の本尊の十一面観音及び両脇侍像です。

右脇侍・毘沙門天立像 中尊・十一面観音立像 左脇侍・不動明王立像

弥勒来迎図及び弥勒浄土図

弥勒来迎図及び弥勒浄土図は、金堂内の来迎壁(高さ約2.5m)に描かれた二面の着色画で、国の重要文化財に指定されています。本物はかなり傷んでおりますが、金沢文庫内には、きれいな復元図が展示されていますので、お立ち寄りの際には是非そちらをご覧いただくとよいと思います。

弥勒来迎図(金沢文庫資料より)
弥勒浄土図(金沢文庫資料より)

釈迦堂

本堂の右手の釈迦堂は、文久三年(1862年)に建立された禅宗様の建築物です。釈迦堂は、釈迦様の教えを説くという視点からみて、鎌倉時代の七堂伽藍のうち講堂の流れを汲むポジションにあり、鎌倉時代に講堂に安置されていた釈迦如来立像(国重文)及び十大弟子立像などが移されています。

木造釈迦如来立像(国重要文化財)

釈迦如来立像は、院派の一員である院保により徳治三年(1308年)に制作されたもので、清凉寺式の釈迦如来像で規則正しい衣文が特徴的です。

釈迦如来立像(金沢文庫資料より)

鐘楼

関東大震災で倒壊後に再建された現在の鐘楼は、釈迦堂寄りの阿字ケ池畔にあり、金沢八景「称名の晩鐘」で知られる重要文化財の鐘が吊るされています。
銅鐘は、当初、北条実時が文永六年(1269年)に、物部国光に造らせたものですが、その後破損したため、息子の顕時が正安三年(1301年)に改鋳しました。物部国光は、円覚寺の洪鐘(国宝)、杉田東漸寺の「永仁の鐘」も手掛けている名鋳物師です。また礎石には、寛政十一年(1799年)に鐘楼を再建した江戸の豪商・石橋弥兵衛の名が残ります。

庫裏

庫裏は、金堂に向かって左手にある建物で、御朱印はこちらで頂けます。最近屋根を直してきれいになりました。

石橋氏宝篋印塔

仁王門や鐘楼の再建に尽力した江戸の米問屋・石橋弥兵衛が建てたものです。鎌倉期を過ぎ歴史の表舞台から降りた後も、その時代毎に様々な有力者が、称名寺を支えてきました。

百番観音霊場

庫裏の西側の石段沿いには、西国三十三観音霊場、坂東三十三観音霊場、秩父三十四観音霊場の各札所を象徴する観音様のレリーフ百体が並ぶ百番観音霊場が置かれています。第二次大戦前に、称名寺の再建に尽力した博文館(大正期には日本最大級の出版会社)オーナーの大橋新太郎氏が、北条実時の660年忌を記念して、この道の先にある金沢山頂の八角堂と共に寄贈したものです。

三重塔跡

百番観音霊場に続く階段の途中右手に「三重塔古址」との石碑が立っていますが、こちらが「称名寺絵図」に描かれている三重塔の跡地です。

全盛期の七堂伽藍を描いた「称名寺結界図」には、このような感じで描かれています。

その後、何らかの理由で一層目のみ残す状態となり「あかざ堂」と呼ばれていましたが、明治初期にはその一層目も焼け落ちてしまい今は何も残されていません。

旧雲堂・庫院・無常院・地蔵院跡地

石橋氏の宝篋印塔裏手の茂みを突き抜ける小道を東に進むと広場に出ます。

上から見下ろすとこんな感じ。

全盛期この場所には、雲堂(修行道場)、庫院(厨房)、無常院(老人・病者の収容施設)、浴室、儒庫(濡れたものをしまっておく倉庫?)、地蔵院(子院、本尊:地蔵菩薩)、東司(トイレ)、北条実時夫人(南殿)廟など主に僧侶の日常生活に関連する建物が並んでいました。

しかし江戸期になると、上の建物群はきれいに消滅し、子院の一之室(いちのむろ)が建てられていました。

さらに大正期になりますと一之室すら消滅し、この記事の冒頭写真のように平らな田地に姿を変え、さらに草地となって現在に至っています。

旧講堂・方丈・護摩堂・両界堂跡地

金堂の裏手には、広大な草地が広がっています。

鎌倉時代の全盛期には、この場所に方丈(住持の居所)、講堂(お釈迦様の教えを説く場所)、両界堂(大日如来を両界曼荼羅と共にお祀りした場所)、護摩堂(護摩行を行う場所)、僧房(僧侶の寝所)などが建てられていました。

北条実時墓所

かつて七堂伽藍が並んでいた広場の背後にある日向山に進んでいくと、石段の奥に北条実時とその一族の墓所があります。中央の宝篋印塔が実時の墓標です。

称名寺市民の森

称名寺の背後の金沢三山は、市民運動により西武グループの開発から幸いにも逃れることができましたが、その後は横浜市により金沢三山を結ぶハイキングコースが整備され、「称名寺市民の森」として親しまれています。

こちらが、金沢文庫駅方面から桜並木を通り、西手から金沢山に向かう入り口です。途中シイタケなども生えています。

こちらは今も残る旧・浅間神社(火災で焼失)の石の祠です。

こちらが金沢山頂にある八角堂と周辺の八角堂広場です。八角堂 は、大正期から昭和初期にかけて称名寺をバックアップした博文館社主の大橋新太郎氏が寄付したもので、昭和十年(1935年)の建立当初は、現在金堂にある「長浜観音」が安置されていました。八角堂の地下には納骨堂があったのですが、今はコンクリートで塗り込められています。

この付近からは、八景島を始めとした沿岸部が一望できます。この日はかつての金沢の絶景に想いを馳せつつ暫し時を過ごしました。

そのまま稜線に沿って東に進むと、稲荷山を経由して、北条実時の墓所に出てきます。

この先、日向山の山頂あたりに金沢貞将の嫡男「北条 淳時(あつとき)」の墓所があるはずなのですが、木々と下草に隠れているようで、発見できませんでした。

金沢文庫所蔵の仏教美術品

称名寺に伝わる多くの文化財は、金沢文庫にて所蔵・管理されています。

絹本著色北条実時・顕時・貞顕・貞将像(国宝)

以下が、金沢文庫の所蔵品の中でも有名な「絹本著色北条実時・顕時・貞顕・貞将像」です。金沢流北条氏の歴代当主を絹布にカラーで描いた貴重な歴史遺産です。

北条実時(金沢文庫資料より)
北条顕時(金沢文庫資料より)
北条貞顕(金沢文庫資料より)
北条貞将(金沢文庫資料より)

勢至菩薩・観音菩薩像

こちらの写真は、称名寺の原点である旧阿弥陀堂の本尊・阿弥陀三尊像の両脇待です。中尊の阿弥陀如来像は後に補われたものですが、この両脇待像は阿弥陀堂創建時から残るものとされています。向かって左が勢至菩薩、右が観音菩薩で、高く結った髪型が特徴的です。

勢至菩薩・観音菩薩立像(金沢文庫資料より)

不動明王二童子像

こちらは、旧「護摩堂」の本尊とされている不動明王像で、左脇侍に矜羯羅(こんがら)童子、右脇侍に 制吒迦(せいたか)童子を従えています。かつて護摩行の煙を浴びたためか、彩色されたのか、その黒々としたお体は、本物感満点です。現在は、金沢文庫に所蔵されています。

厨子入金属製愛染明王坐像(国重要文化財)

こちらは、旧三重塔内に安置されていた愛染明王坐像です。厨子に入ったコンパクトな仏様ですが、とても精緻に造られています。

厨子入金属製愛染明王坐像 (金沢文庫資料より)

最後までご覧いただきありがとうございました。地元の皆さんの想いに支えられた称名寺は、ここ旧武蔵国・金沢の地において、これからも鎌倉期以来の長い歴史を凝縮した特別な存在であり続けることでしょう。