鎌倉・覚園寺◆境内散歩◆
- 2019.03.11
- 境内散歩
覚園寺は、鎌倉・ 二階堂の奥深く薬師堂ケ谷にある真言宗泉涌寺派の古刹です。この場所には元々北条義時が造立し薬師如来と十二神将を祀った大倉薬師堂がありましたが、北条貞時の代になって正式の寺に改められ「鷲峰山(じゅぶせん)覚園寺」を名乗るようになりました。以降、律宗を軸とした四宗兼学(天台、真言、禅、浄土)の道場としての長い歴史の中で盛衰を繰り返しつつ多くの文化遺産を蔵し、現在の鎌倉の社寺の中でも特に秘境的な雰囲気を醸し出す独特のポジションを保っています。また現在、鎌倉二十四地蔵尊霊場第三番札所、鎌倉十三仏霊場第十一番札所をお務めです。
なお覚園寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒覚園寺へ
※写真をクリックすると拡大します。
覚園寺の魅力
◎重厚な歴史を背景に仏に導かれ集約されてきた二階堂地区・文化遺産の宝庫
◎実朝暗殺に際して北条義時を救った大倉薬師堂開創にまつわる戌神将伝説の裏表
◎観光客に踏み荒らされることもなく鎌倉深奥の薬師堂ヶ谷を埋め尽くす「夏の青葉」と「秋の紅葉」
◎鎌倉寺社ファンを惹きつけてやまない真夏深夜のディープな黒地蔵縁日体験
境内図
山門付近
鎌倉宮・一の鳥居前から北に向かって伸びる車がすれ違えない細い道を頼りに薬師堂ヶ谷を奥に進むと、覚園寺の山門が見えてきます。
季節によって、随分と見え方の違う山門です。
行事のある日には、幔幕と提灯が掲げられます。また、梁には、その年の守護神のお札が張られています。
山門の左には、自動車が通れる幅の広い脇門があります。
この付近の紅梅は、とても綺麗です。
愛染堂
山門の正面にあるのが「愛染堂」です。現在の建物は、関東大震災後・昭和初期に建てられたものですが、内陣の部分は、境内の旧・蓮華院跡に移転した 旧・大楽寺の本堂が関東大震災で大破したため、その部材を用いて再構築したものです。
旧・蓮華院跡というのは、現在の旧・内海家住宅の建っている付近になります。
愛染堂の仏像・頂相
仏像
木造愛染明王坐像(鎌倉市指定文化財)
愛染堂の建物(旧・大楽寺本堂)および「鉄造不動明王坐像」(旧・大楽寺御本尊)、「木造阿閦如来(あしゅくにょらい) 坐像」と共に、明治の初めに旧・大楽寺より引き継がれた仏像で、現在は愛染堂の御本尊です。鎌倉後期の作。
◆大楽寺
「鉄造不動明王坐像」を造った願行上人の法嗣・公珍が胡桃ヶ谷に開山した真言宗泉涌寺派の寺院ですが、永享十年(1438年)の永享の乱に際して焼失したため、薬師堂ヶ谷の覚園寺の近くに移転してきました。明治四年(1872年)に廃寺となり、旧・大楽寺本堂は明治三十八年(1906年)に覚園寺境内の旧・蓮華院跡に移築されましたが、関東大震災で壊れてしまいました。現在の愛染堂には、旧・大楽寺本堂の建物の一部が使用されています。
鉄造不動明王坐像(神奈川県指定文化財)
願行上人が、大山寺の不動明王像を造立するにあたって試しに製作したとの言い伝えがあり「試みの不動」とも呼ばれています。製作は旧・理智光寺の近くの「たたら場」で行われ、十二所の旧・願行寺(ごんぎょうじ)に安置されていました。しかし鎌倉幕府滅亡に際して罹災したため、旧・大楽寺に移され大楽寺の御本尊となり、さらに明治の始めに「木造愛染明王坐像」等と共に覚園寺に遷座しました。 鎌倉前期の作。
木造阿閦如来(あしゅくにょらい) 坐像
こちらの仏様も「木造愛染明王坐像」等と共に、旧・大楽寺より覚園寺に遷座したものです。この像は薬壺を持っているため、寺伝によれば 「薬師如来」とされていましたが、頭部裏側の眉間の部分に「阿閦佛」との記述が見つかり、単独で製作される例があまりない「阿閦如来」であることが判明しました。
頭部裏側の左頬部の記述から元享二年(1322年)「法印院興」の作であることが判っています。
愛染堂には、上記三体の他、以下のような仏様も安置されています。
木造僧形文殊菩薩坐像 | 木造釈迦如来坐像 | 木造阿弥陀如来坐像 |
南北朝の頃の作。おそらく食堂や僧堂に安置されていた仏様です。 | 鎌倉後期の作。旧・大楽寺本堂の内陣本尊と伝えられており「内仏」と呼ばれています。 | 様式的な衣紋などから定朝様の香りがしますが造立時期は不明です。 |
何れの写真も「覚園寺」より
頂相
愛染堂には、覚園寺の長い歴史に連なる多くの高僧の頂相が安置されています。
木造南山律師坐像 | 木造大智律師坐像 | 木造俊芿(しゅんじょう)律師坐像 |
中国・唐の高僧で、真言宗泉涌寺派に繋がる四分律宗の祖です。室町時代の作。 | 中国・北宋の時代に四分律宗を復興した方です。室町時代の作。 | 覚園寺の本山に該る京都・泉涌寺の開山です。南山律師像及び大智律師像と共に、旧・大楽寺本堂内の祖師堂に安置されていたものと思われます。室町時代の作。 |
木造智海心慧坐像 | 木造願行上人坐像 | |
京都・泉涌寺の願行上人から真言密教を、鎌倉・極楽寺の忍性上人から律宗を学んだ高僧で、北条貞時に請われ覚園寺・開山となりました。南北朝期の作。 | 「試みの不動・鉄造不動明王像」を造立するなど、旧・大楽寺と関係の深い方で、後に京都・泉涌寺の第六世に迎えられました。室町時代の作。 |
何れの写真も「覚園寺」より
◆願行上人と鉄造不動明王
願行上人は、師事していた高野山の意教上人と共に鎌倉に入りましたが、ある日、師より鉄造の阿弥陀如来像を渡され、相模・大山寺に登り祈願を凝らしてこの像の目を開けることができたら密教の法を伝授する旨申し渡されました。早速、大山寺に赴いた願行上人が一心不乱に勤行したところ不動明王が顕れ、阿弥陀如来像の目を開いてくれました。この時の不動明王のお姿を元に造立したのが覚園寺の「試みの不動」と大山寺の「鉄造不動明王坐像」です。このように願行上人は、おおきな法力を持つことで知られ、大山寺中興の祖とされる他、鎌倉・安養院の前身・長楽寺や、旧・理智光寺の開山でもいらっしゃいます。
愛染堂前の境内
庭園
薬師堂あたりの自然美とは趣を異にしますが、苔を頂く庭石が真夏の緑に覆われる愛染堂前の庭園は、なかなかに美しいものです。
冬場の枯れた趣には、梅・水仙・椿・みつまた等が彩りを添えます。
十重石塔
山門を入った左手に、ひと際目立つ十重の石塔です。十三重というのはよく見かけますが、十重というのは意外と珍しいものです。何か特別な意味があるのでしょうか?季節には梅の花が映えます。
まことの鐘
大東亜戦争の戦没学徒の英霊に廻向すべく、昭和三十五年(1960年)に有志により奉納された鐘で、東京・品川寺にも同様の鐘が納められています。
受付
こちらが有料寺域の受付です。通常の日は、一日5~6回の決まった時間に伺いますと、お寺の方がこれから先を案内していただけます。黒地蔵ご縁日等を除けば、ご朱印はこちらで頂くことになります。なお、ここから先では撮影ができなくなります。
覚園寺境内絵図
江戸時代初期のものと云われる「覚園寺境内絵図」です。覚園寺の寺域の昔の様子がよく分かります。原本は関東大震災で失われましたが、写本がこのように残っています。
地蔵堂
昔の建物は関東大震災で失われ、現在の地蔵堂は昭和十四年(1939年)に新たに建てられたものです。
こちらには、左右を「千体地蔵(千躰地蔵)」に囲まれ、重要文化財の木造地蔵菩薩立像(黒地蔵)が安置されています。
◆黒地蔵様の霊験(その1)火焚き地蔵
黒地蔵様は別名「火焚き地蔵」とも呼ばれています。このお地蔵様は、大変慈悲深いため、地獄の業火に焼かれる罪人の苦しみを和らげようと獄卒に代って自ら火を焚き手加減してくださることから全身が黒ずみ、何度彩色しても一夜で黒くなってしまうそうです。
◆黒地蔵様の霊験(その2)力持ちの法師
黒地蔵様はもともと海辺にありましたが、もとの持ち主が手放すことになり願行上人が買い取り二階堂に運ぼうとした時、十人がかりでやっと動かすことができる黒地蔵を一人で運んだ法師がいました。この法師は黒地蔵を運ぶとサッと消えてしまったそうです。
◆黒地蔵様の霊験(その3)黒地蔵の手直し
黒地蔵様のうなじの部分を手直ししようと願行上人がある仏師に頼んだところ霊験あらたかなお地蔵様に手を入れるのは恐れ多いと断られてしまいました。しかし後に断ったその仏師がやってきて、夢に若い僧が現れて「わが身を直してくれ。苦しゅうない。」と言われた旨、願行上人に告げ、予定通り手直ししたとのことです。
千体堂(千躰堂)
千体堂には木造地蔵菩薩坐像が安置されています。 また、地蔵堂に入りきれない千躰地蔵をこちらでもお祀りしています。もともとは鎌倉・山ノ内にあった神社の社殿だったそうですが、今は大きくしっかりと建て直されて、8月10日の黒地蔵縁日などには護摩行が行われます。
薬師堂(神奈川県指定文化財)
こちらが、御本堂の薬師堂(本堂・仏殿)です。北条義時が開創した大倉薬師堂に直結する覚園寺の歴史の軸となる建物です。当初の建物は建武四年(1336年)に焼失しましたが、文和三年(1354年)に再建されました。江戸時代・元禄期に改築された際には、規模は少し小さくなったものの建武期の古材が再利用され、今に至ります。堂内には覚園寺本尊・薬師三尊像、鞘阿弥陀、賓頭盧尊者、伽藍神三体が安置されています。
天井には、禅刹のように「丸龍」が描かれていますが、こちらは元禄期の改修に際して狩野典信が筆を執ったものです 。また「丸龍」 の両脇に二本の梁牌が掲げられており、一本は室町幕府初代将軍・足利尊氏の直筆、もう一本は当時の住持であった「朴艾思淳(ぼくがいしじゅん)」の筆によります。
【左側:朴艾思淳(ぼくがいしじゅん)の梁牌銘】
征夷將軍、冠蓋一天、武威統於萬邦、榮運及於億載、梵宇固基、至慈尊之出世、法燈無盡、照徧界之重昏、衆僧和合、諸天擁護、敬白、文和三年十二月八日、住持沙門思淳謹誌 書
【右側:足利尊氏の梁牌銘】
今上皇帝、聖壽無疆、天下元黎、淳風有道、異國降伏昌懇祈之法場、伽藍常住、轉不窮之法輪、人々歸敬三寶、國々歌樂太平、敬白、征夷大將軍正二位源朝臣尊氏謹
薬師堂の仏像
薬師堂内の諸仏の配置は、大まかに以下の通りです。
木造薬師如来及び日光・月光両菩薩坐像(重要文化財)
こちらが、薬師堂中央の須弥壇上にある覚園寺の御本尊・薬師三尊像です。このうち中央の薬師如来は、頭部が鎌倉時代、体部は室町時代 のものと考えられます。また、日光菩薩・月光菩薩については、日光菩薩東部内側の「伯耆法眼朝祐 応永二十九年寅三月廿一日」の銘から応永二十九年 (1422年)の作品であることは間違いなさそうです。
日光菩薩・月光菩薩は、浄光明寺の勢至菩薩・観音菩薩の作風を受け継いでいると云われますが、体の傾き加減などそっくりですね。⇒浄光明寺◆境内散歩◆
木造阿弥陀如来坐像・鞘阿弥陀(神奈川県指定文化財)
薬師三尊像の右手に鎮座するのが、木造阿弥陀如来坐像で、通称・鞘阿弥陀(さやあみだ)と呼ばれています。この仏様は、明治の初めに廃寺となった旧・理智光寺の御本尊で、胎内に古仏が収められていたことから「鞘阿弥陀」と云われるようになったそうです。なお「鞘阿弥陀」が安置されている薬師堂右奥部には、もともと「祖師堂」があり、現在「愛染堂」に安置されている頂相が置かれていたと思われます。
木造伽藍神倚像(鎌倉市指定文化財)
現在の薬師堂の左奥には、伽藍神が三体安置されています。向かって左から大権菩薩・大帝菩薩・修理菩薩となっています。
大権菩薩 | 大帝菩薩 | 修理菩薩 |
いずれも「覚園寺」より
木造十二神将立像(重要文化財)
十二神将は、薬師如来の従者として仏法を守る役割を果たし、他の如来と共に祀られることはありません。後に、十二支に割り当てられ夫々の歳の守護神となり、さらには十二支から演繹されて十二時間(子の刻,丑の刻・・・)にも割り当てられるようになりました。伐折羅大将(戌神将)を除き全て製作年が判明しており、何れも応永八年(1401年)かた応永十八年(1411年)にかけて造立されていますが、伐折羅大将(戌神将)は他の神将と像高が異なり、これだけが鎌倉時代のものではないかと考えられます。
◆北条義時を救った戌神将
建保六年(1218年)6月に鶴岡八幡宮で執り行われた源実朝の内大臣就任を祝う式典に参列した夜、北条義時の夢枕に薬師如来の眷属・戌神将が現れ「今年の式典は無事だったが、もし来年の式典に参列することがあるなら、供奉してはならない。供奉すれば必ず悔いることになる。」と告げました。このお告げにより薬師如来への信心を深めた義時は、この年の12月には寿福寺の二世住持を務めていた退耕行勇を開山として大倉薬師堂を建立しました。そして翌建保七年(1219年)1月に、今度は実朝の右大臣就任に伴う拝賀式を迎えることになりました。鎌倉幕府の重職として参列しない訳にはいかず、参列のため鶴岡八幡宮の大石段下にまで来たとき、どこからともなく白い犬がやってきて義時をじっと見つめました。すると義時は一歩も動くことができなくなり、義時が務める予定であった「剣持」の役を中原仲章に代ってもらい、屋敷に戻ったのですが、将にその拝賀式を終えた直後に実朝が公暁に暗殺され、同時に「剣持」の中原仲章も殺されてしまったのです。これを聞いた義時は、直ちに長尾定景を差し向けて公暁を打った訳ですが、翌朝に薬師堂の寺僧より、夜中に消えていた十二神将の戌神将が朝には戻っていたことを聞かされたとのことです。
いかにも義時に都合のよい作り話にしか聞こえない訳ですが、このように覚園寺はその成立の時から北条得宗家とディープな繋がりがありました。もしかすると現在の十二神将の中で戌神将のみ古い年代の像が生き残っている理由とも関わっているのかも知れません。
宮毘羅大将(子神将) | 招杜羅大将(丑神将) | 真達羅大将(寅神将) |
摩虎羅大将(卯神将) | 波夷羅大将(辰神将) | 因達羅大将(巳神将) |
珊底羅大将(午神将) | 頞儞羅大将(未神将) | 安底羅大将(申神将) |
迷企羅大将(酉神将) | 毘羯羅大将(亥神将) | 伐折羅大将(戌神将) |
いずれも「覚園寺」より
開山塔・大燈塔(重要文化財)
境内の最奥部に、覚園寺歴代住持の墓所があり、二基の大きな宝篋印塔があり、背後には無縫塔がならんでいます。向かって右側が開山・智海心慧の墓塔である開山塔、左側が二世大燈源智の大燈塔となります。両者とも正慶元年(1332年)の建立で、1965年の解体修理に際して発見された智海心慧の舎利容器・古瀬戸黄釉草葉文壺等とも併せて重要文化財に指定されています。
普段は公開されていませんので、鎌倉十三仏実行委員会主催の「梅かまくら特別寺社 参拝」などの機会を利用してお参りしたいところです。参照⇒寿福寺~梅かまくら特別寺社参拝(2019年)~
なお背後の無縫塔は、三世以降の住持の墓塔です。
内海家住宅(神奈川県指定文化財)
こちらは、鎌倉・手広の名主であった内海家の住宅です。有料境内の拝観時に、ご案内いただけます。
棟立の井
「鎌倉十井」の一つですが、覚園寺境内の奥深くにあるため、特別拝観日等の機会を捉えないと拝見できません。崖に横穴を開けて中から湧き出す石清水を貯める形の井戸で、切妻型の石屋根がついているため「棟立の井」というそうです。
十三仏やぐら
十三仏やぐらは、千体堂に向かって左手にある東側の崖の下にあるやぐらで、十三仏が収められています。入口は小さ目ですが、中に入ると高い天井になっており、正面の壁に13箇所の「仏龕(ぶつがん) 」があり、崩れが目立つ1箇所を除き計12体の石仏が収められています。残りの1体の石仏は、左手前の地面に置かれていました。石仏の風化が目立つことから、元々は屋外にあったものかも知れません。
黒地蔵縁日
毎年8月10日は、覚園寺の黒地蔵尊縁日で、夜を通して覚園寺境内の諸堂にお参りすることができる特別な日です。この日に三年続けて施餓鬼をすれば 、黒地蔵様のお導きにより、亡くなられた方は必ず成仏し、参拝者にも無限の功徳があると云います。 詳しくは、投稿記事「覚園寺~黒地蔵尊縁日(2018年)~」をご参照ください。
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夜間特別涅槃会
お釈迦様が入滅された二月十五日には、各寺院で様々な法要が行われますが、覚園寺では少し早目の十日~十二日に夜間特別参拝が企画されました。お寺の方のご案内で薬師堂にお参りできる他、この期間しかいただけない限定ご朱印も頂けます。
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最後までご覧いただきありがとうございました。覚園寺さんは、とにかく多くの寺宝と奥行きのある歴史をお持ちのため、調べれば調べるほど興味が湧いて来ました。今回の投稿はかなりのボリュームとなってしまい申し訳ございませんでした。
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