浄光明寺~梅かまくら寺社特別参拝(2019年)~
- 2019.03.05
- 境内散歩
「鎌倉十三仏詣実行委員会」が例年企画する「梅かまくら寺社特別参拝」の第八弾「浄光明寺」に行って参りました。 この日は、ご住職と境内の主要な建物・遺跡を巡りながら 、近年発見され重要文化財に指定された「浄光明寺敷地絵図」の記載と現状を引き比べてご説明いただきました。また、普段は公開されていない客殿の裏庭及び「大やぐら」にも入らせていただけて大感激でした。
「梅かまくら寺社特別参拝」 の概要については、以下の記事をご覧ください。⇒「寿福寺~梅かまくら寺社特別参拝(2019年)~」
浄光明寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒浄光明寺へ
境内図
記事の内容と照合していただくと解りやすいと思います。
現在の境内図
「浄光明寺敷地絵図」(南北朝時代)
以前より「ある」と云われていながら行方が分からなくなっていた南北朝時代のこの絵図は、2000年に浄光明寺の近くの民家で再発見され、すぐに国の重要文化財に指定されました。現在は、鎌倉国宝館に寄託・収蔵されています。 鎌倉幕府滅亡直後、新政権に浄光明寺の敷地・境内の安堵を求めるために作成されたと思われ、当時の境内の範囲や建物の配置がわかる貴重な資料です。図上の▲印は、足利氏の重臣・上杉重能の花押です。
境内の様子
「梅かまくら寺社特別参拝」受付
この日は、とても天気の良い暖かい日でした。参道前には「冷泉為相」の旧跡を示す石柱があります。
客殿前
客殿の屋根では、狛犬が跳ねてます。
客殿の前庭は梅・椿・水仙が綺麗です。
不動堂
不動堂の前には「梅かまくら」参加者の皆さんが腰を下ろしていらっしゃいます。
不動堂の宝珠と梅が重なり合います。
「不動堂」の 御本尊は「八阪不動明王像」です。「一条戻橋の伝承」で有名な怪僧・浄蔵貴所が、傾いた京都・法観寺(旧・八坂寺)の五重塔を法力でもとに戻した際に祈祷したのが、この不動明王様であったことからこう呼ばれています。
鐘楼
稲荷社
浄光明寺境内にある稲荷社への登り口は、一旦山門より境内を出て参道の突当りを左折し、十数mほど進んだところにあります。人がすれ違うのも厳しいくらい狭い道が稲荷社に続きます。
少しづつ登っていくと左手に「不動堂」の屋根が見えます。
稲荷社の周りには、赤い奉納旗がたなびいています。草は刈られ、鳥居には笹が結わえられるなど一応の管理はされている感じです。
楊貴妃観音像
浄光明寺は、真言宗・泉涌寺派に属していらっしゃいますが、こちらは泉涌寺にある楊貴妃観音像を模した観音様だそうです。 なお、泉涌寺の楊貴妃観音像は木造で、鮮やかに着色されています。
◆楊貴妃観音
湛海律師が寛喜二年(1230年)に南宋より将来し、泉涌寺の楊貴妃観音堂に安置されている聖観音像(着色・木造)で、国の重要文化財に指定されています。宝相華唐草透かし彫りの宝冠を被り、手には宝相華を持った繊細優美な造形は、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈り造立したとの伝承があるほどです。
勢至菩薩像
「鎌倉十三仏」第九番札所のご本尊「勢至菩薩坐像」です。死後の世界では「都市王」に垂迹し一周忌を司ります。
虚空蔵菩薩像
上の境内に進む石段を昇った右手に「虚空蔵菩薩」がいらっしゃいます。
石段の左手には、鎌倉市天然記念物のイヌマキが立っています。
浄光明寺敷地絵図の説明
①本堂 | この図では「本堂」とは書かれていませんが、中央の一番大きな建物で、現在の「客殿」の場所にあります。 |
②庫院 | 本堂に向かって右手前(現在の鐘楼やトイレあたり)にあり、食堂・調理場として使用されていたと思われます。小さく太鼓や雲板の絵もあります。 |
③僧堂 | 本堂に向かって左手前(現在の庫裡あたり)にありました。浄光明寺は「四宗兼学」のお寺でしたので、禅や密教修法の修行の場として使用されていたと思われます。 |
④僧坊 | 僧の寝泊まりする場所が、本堂の左手に回廊で繋がって存在していたと思われます。 |
⑤延寿堂 | この境内図の左側に見えます。病人や年老いた僧達の療養施設と思われます。 |
⑥石段 | 当時の石段は、今の石段に向かって右手(東側)にあったようです。石段を上ったところの隧道は、今も残っています。 |
⑦経蔵・持仏堂 | 隧道の奥に、「経蔵」と最後の執権・北条守時の「持仏堂」があったらしいとのお話でした。 |
⑧慈光院 | 阿弥陀三尊像が安置されていたと思われます。 |
⑨地蔵院 | 現在「網引地蔵」が安置されているやぐら及びその前の敷地に塔頭「地蔵院」があったと思われます。 |
⑩地蔵堂路 | 絵図の左手から「地蔵堂路」が続いています。「網引地蔵」 がある境内の南西には「地蔵堂路」 の終端と思われる隧道があります。 |
仏殿(阿弥陀堂)
鎌倉市の文化財に指定されている浄光明寺の仏殿(阿弥陀堂)は、客殿や不動堂より一段高い境内にあります。 江戸時代・ 寛文八年(1668年)に鶴岡八幡宮寺相承院の「元喬僧都」が母の追善供養のために寄進したもので、おそらく「慈光院」の資材を資料して建てられたものと思われます。丁度、正面の扉を開けていただいているところです。
現在は、三世仏(過去仏・阿弥陀如来、現在仏・釈迦如来、未来仏・弥勒如来)が中央に安置され、向かって左奥の祖師堂には木造・真聖国師(開山・真阿)像、右奥の土地堂には木造・北条長時像が収められています。 また中央の須弥壇は室町時代のもので鎌倉市指定文化財です。
こちらの大きい五輪塔が「元喬僧都」のお墓で、その右隣にお母様の墓碑があります。
収蔵庫
防犯・防火設備の整ったこちらの収蔵庫には御本尊の阿弥陀三尊像、矢拾地蔵立像等が納められています。
中央にいらっしゃる阿弥陀如来坐像は、 定朝の流れを汲む院派の作で、1299年正安元年に造立されたものです。鎌倉の仏像特有の土紋技法が用いられており、もとは金箔をベースに彩色されていました。また宝冠は江戸時代になってから付けられたものだそうで、頭を少し削っています(ちょっと罰当たり??)。
浄土宗の阿弥陀如来像の印相は、臨終に際して如来がお迎えに来てくれる際に結ぶという「来迎印」が一般的なのですが、浄光明寺の阿弥陀如来像は「説法印」を結んでいらっしゃいます。法然上人は「称名念仏」のみが極楽往生のための本願行であると説きましたが、後に他の宗派との折り合いを付けるため「称名念仏」以外の所行(護摩行・滝行・回峰行etc.)も本願行に他ならないとする「所行本願義」という考え方が出て来まして、阿弥陀如来が説法している姿が造形化されました。そうした意味では、「四宗兼学」を旨とする真言宗泉涌寺派に属する浄光明寺の御本尊として極めて適切な印相と云えます。
また、左右の勢至菩薩坐像と観音菩薩坐像は、阿弥陀如来坐像よりも少し古いものと思われます。どうも初代の阿弥陀如来坐像は火災で焼失し、両脇侍だけが生き残ったようです。
勢至菩薩坐像 | 阿弥陀如来坐像 | 観世音菩薩坐像 |
「神奈川縣文化財圖鑑(神奈川県教育委員会)」より
神奈川県の文化財に指定されている矢拾地蔵様は、足利直義の念持仏と云われております。左手の厨子の中に納められ、保存状態も良好なため、衣文の截金模様がしっかり残っています。
収蔵庫右手前には、多宝塔が置かれていました。ご住職に由来をお聞きしたのですが、由来は判っていないとのことです。
網引地蔵
鎌倉市指定文化財の網引地蔵様は、阿弥陀堂裏の崖を削った急な階段を上った先にある平地奥のやぐらの中にいらっしゃいます。伝説では、漁師が海から引き揚げたことになっておりますが、寺伝では、冷泉為相による造立とも伝えられています。
先にご紹介した南北朝時代の絵図によれば、ここには地蔵院という塔頭があったようです。このやぐらも、壁面の四角い穴や網引地蔵様の頭上の丸い窪みから想像できるように、きちんと木組みされ、網引地蔵様の上には、天蓋があったように思われます。
この日は、特別に柵内に入れて頂けました。
おかげさまで、お地蔵様の背中の文字まで拝見することが出来ました。 「供養導師性仙 正和二年十一月」とあります。
冷泉為相・宝篋印塔
冷泉為相は、 歌聖・藤原定家の孫で、「十六夜日記」の阿仏尼の子供です。鎌倉連歌を確立するなど、鎌倉歌壇の指導者として活躍した人ですが、権中納言を辞した後、浄光明寺の北西にある藤ヶ谷に居を構えていましたので「藤谷黄門」と呼ばれていました。
冷泉為相のお墓は、網引地蔵尊のやぐらの脇の階段をさらに上に上がったところにあり、玉垣に囲まれた宝篋印塔の形を取っています。
玉垣の正面左柱には「御玉垣造立 冷泉家門人 義正 義直」、右柱には「ふぢがやつ黄門為相御墓」の銘があります。ここにある「義正」とは江戸時代の高崎藩家老「宮部義正」、「義直」とはその子「宮部義直」で、かなり時代が下ります。 なお「宮部義正」は、後に幕府の和学所に仕え将軍家の師範になるほどの歌人で「関東の公家」と称された方です。冷泉家十五代当主の「冷泉為村」とは大変親しい間柄でした。
冷泉為相のお墓の裏側には木戸があり、これを進むと重要文化財の石造五輪塔「覚賢塔」に行けますが、毎年4月・鎌倉まつりの期間中のみオープンされます。
客殿裏庭
特別参拝の最後に、普段は全く立ち入ることのできない客殿の裏庭に入れていただきました。
裏庭内部は、撮影できませんので簡単な図で、ご勘弁ください。
まず、写真に撮った棟門を入りますと、右手一面に10mくらいはありそうな凝灰質砂岩の崖が迫り、その崖を覆うように鎌倉市天然記念物のビャクシンが枝を伸ばしています。正面は奥行のある細長い池になっており、石橋を渡ると大やぐらの入口に行けます。大やぐらは西と東とふたつあり、内部で繋がっています。入口も結構高いのですが、内部はさらに大きい空間になっており、特に東側の方は5mくらいの高さがあったと思います。内部には結構な数の五輪塔が並んでおり、ご住職はおそらくは墓地だったのではないかとおっしゃってました。鎌倉市内で、これだけの容積のやぐらは寡聞にして存じ上げません。
最後までご覧いただきありがとうございました。浄光明寺さんは、実にすばらしい文化財の宝庫です。特に「浄光明寺敷地絵図」が出て来て以降は、歴史的にも考古学的にも裏付けが取れて、さらに重厚感を増したように思います。
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