那智勝浦町にある白華山(びゃっかさん)・補陀落山寺(ふだらくさんじ)は、仁徳天皇の世にはるかインドから那智浜に漂着なさった裸形上人により開山されたと伝わる古刹です。 江戸期までは那智七本願の一つ「補陀落寺」として知られ、文化五年(1808年)に台風で倒壊するまで大伽藍を構えていました。もともとは真言宗でしたが、明治期に青岸渡寺の別院となって以降は、天台宗の寺院として存続しています。 実は私の地元の […]
熊野本宮大社・熊野速玉大社とともに熊野三山を構成する現在の熊野那智大社は、仁徳天皇の五年( 317年)に、現在の別宮・飛瀧神社(ひろうじんじゃ)の地より、那智山中腹に遷り成立しました。 さらに遡ること千年、「神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇」の東征(紀元前662年)の折、「丹敷浦(にしきうら)=那智の浜」より、神光を放つ「光ケ峯」を目指し那智川を遡上する中、目の前に現れた雄 […]
学問の神様・菅原道真公をご祭神とする荏柄天神社は、鎌倉市の北東部・二階堂にあります。関東を中心に多くの分社を持つ古社であることから、京都・北野天満宮及び福岡・太宰府天満宮と共に日本三大天神に数えられ、教育熱心な日本国民の信仰を集め社殿の東西は合格祈願の絵馬で埋め尽くされています。 神社の開創は頼朝の鎌倉開府に先立つこと八十余年前に遡り、長治元年(1104年)八月のある日、晴天俄かに掻き曇り、雷雨 […]
和歌山県新宮市の名は、もちろん熊野速玉大社の別名「新宮」に由来します。熊野本宮・熊野速玉・熊野那智の各社は、まとめて「熊野三山」と呼ばれておりますが、それは神仏習合が進み、朝廷による熊野統治のための役職「熊野別当」が置かれて以降(おそらく10世紀以降)に成立した概念であり、実は夫々に異なる起源を持っています。別称の「新宮」も一見、熊野「本宮」に対しての「新宮」であるかのような印象を受けますが、実 […]
極楽坂切通の鎌倉側の「坂ノ下」にある「御霊神社」は、御祭神の鎌倉権五郎景正公にちなみ「鎌倉権五郎神社」とも呼ばれます。古くは「五霊神社」と呼ばれ豪族「鎌倉党」の一族である大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉の五氏の先祖を祀っておりましたが、遅くても文治元年(1185年)までには、後三年の役での「矢抜き」の逸話であまりにも有名な鎌倉武士の鑑・鎌倉権五郎景正公一柱のみをお祀りする神社となり、いつしか表記も「御 […]
この春にお参りした南紀熊野三社・青岸渡寺とその周辺の由緒ある神社・仏閣を「熊野三山遠征記」として数回に分けてご紹介します。第一回は、熊野三社でも筆頭とされる熊野本宮大社です。 田辺市本宮町にある熊野本宮大社(旧官幣大社・熊野坐神社(くまのにますじんじゃ))は、崇神天皇六十五年(紀元前33年)に開創され、熊野速玉大社・熊野那智大社と併せた熊野三社の首座として、神代より全国4800社と云われる熊野神 […]
「鎌倉十三仏詣実行委員会」が例年企画する「梅かまくら寺社特別参拝」の第十弾「安国論寺」に参加してきました。 この日は、ご本堂に上がりご住職による安国論寺のご説明をお聞きし、そのあと参加者からの質問にもお答えいただく時間も取って頂きました。その後、普段は中に入れない「御小庵」にご案内頂き「御法窟」内を正面に見ながら参拝いたしました。さらに、以前から気になっていた「観音堂」にも初めて上がらせてもらいモ […]
円覚寺塔頭の「正續院」は、開山・無学祖元の塔所として知られている訳ですが、実は臨済宗円覚寺派における四つの大切な役割を担っています。 第一に開山・無学祖元の塔所「開山塔」としての役割です。無学祖元は、円覚寺の開山であると共に建長寺の二世でもありますので、塔所は示寂の地である建長寺に置かれ「正續庵」と呼ばれておりましたが、後に、夢窓疎石が後醍醐天皇に働きかけ円覚寺境内に移したのが、現在の「正續院」 […]
「東漸寺」という名のお寺は、意外とたくさんあるのをご存じでしょうか?今回ご案内する横須賀・ 東漸寺の周辺でも、鎌倉・腰越には龍口寺輪番八ヶ寺の一つ龍口山・東漸寺(日蓮宗)、横浜・杉田には霊桐山・東漸寺(臨済宗)、横浜市内だけでもさらに三ケ寺(中区・鶴見区・都筑区)あります。「東漸 」というのは、中国系の仏教語で、大乗仏教がインドから次第に東の方に伝播していく様を表す言葉です。仏教の東の終着点であ […]
江島神社に伝わる『江島縁起』には、まず 欽明天皇が、その十三年(552年)に「宮」を島南の竜穴(岩屋のこと)にお建てになり、さらに「役小角(えんのおづぬ)」が修行場として御窟を開いたと記されています。その後も奈良・平安・鎌倉 と続く江ノ島の長い歴史の中で「泰澄」「道智」「空海」「安然」「日蓮」「蘭渓道隆」といった名僧たちが、夫々に、岩屋に籠り行を修しました。 弁財天をお祀りする宗教施設としての岩 […]