大峰奥駆道を往来する修験者たちより「結願天(けちがんてん)」 と崇拝される玉置山を神奈備(かむなび)とする玉置神社は、熊野の森の奥深く杉の巨木に囲まれ鎮座する熊野三山の奥宮で、まさに「呼ばれた人しか行けない神社」「呼ばれた人しかたどり着けない神社」と云うにふさわしい秘境のお社です。 「玉置山縁起」によれば、その歴史は「王城火防」と「悪魔退散」のため社殿を設けた崇神天皇の61年(紀元前37年)に遡り […]
佐助稲荷神社は、鎌倉駅の北西の山手にあるお稲荷様で、創建は鎌倉初期の建久年間(1190年~1199年)とされています。社伝によりますと、源頼朝の挙兵にあたり頼朝の夢枕に隠ノ里の稲荷の主が現れ、挙兵を勧めたそうです。見事鎌倉に幕府を開いた後、頼朝は畠山重忠に命じて「かくれ里の祠」を探し当て、社殿を設けたのが始まりというお話です。「佐助」の名は、官職名「兵衛佐」を名乗っていた頼朝を助けたことに由来す […]
三重県熊野市有馬にある花窟(はなのいわや)神社は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)をお祀りしており、その始まりは神代に遡ります。 日本書記には、火の神・軻遇突智尊を生むときに陰部を焼かれて死んだ伊弉冉尊は、紀伊国の熊野の有馬村に葬られ、人々はその魂(みたま)を「花の時に花を以って祭」ったとあります。さらに社伝によれば、中古三十六歌仙の一人として知られる増基法師(生没 […]
鶴岡八幡宮大石段に向って左手に、鶴岡八幡宮唯一の摂社・若宮があります。御祭神は、「仁徳天皇(にんとくてんのう):本宮主祭神・応神天皇の皇子」「履中天皇(りちゅうてんのう):仁徳天皇の皇子」「仲媛命(なかつひめのみこと):仁徳天皇の母后 」「磐之媛命(いわのひめのみこと):仁徳天皇の皇后」の四柱です。 若宮の歴史は、河内源氏の源頼義が、前九年の役の戦勝祈願のため、康平五年(1063年)に河内源氏の氏 […]
那智勝浦町にある白華山(びゃっかさん)・補陀落山寺(ふだらくさんじ)は、仁徳天皇の世にはるかインドから那智浜に漂着なさった裸形上人により開山されたと伝わる古刹です。 江戸期までは那智七本願の一つ「補陀落寺」として知られ、文化五年(1808年)に台風で倒壊するまで大伽藍を構えていました。もともとは真言宗でしたが、明治期に青岸渡寺の別院となって以降は、天台宗の寺院として存続しています。 実は私の地元の […]
熊野本宮大社・熊野速玉大社とともに熊野三山を構成する現在の熊野那智大社は、仁徳天皇の五年( 317年)に、現在の別宮・飛瀧神社(ひろうじんじゃ)の地より、那智山中腹に遷り成立しました。 さらに遡ること千年、「神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇」の東征(紀元前662年)の折、「丹敷浦(にしきうら)=那智の浜」より、神光を放つ「光ケ峯」を目指し那智川を遡上する中、目の前に現れた雄 […]
学問の神様・菅原道真公をご祭神とする荏柄天神社は、鎌倉市の北東部・二階堂にあります。関東を中心に多くの分社を持つ古社であることから、京都・北野天満宮及び福岡・太宰府天満宮と共に日本三大天神に数えられ、教育熱心な日本国民の信仰を集め社殿の東西は合格祈願の絵馬で埋め尽くされています。 神社の開創は頼朝の鎌倉開府に先立つこと八十余年前に遡り、長治元年(1104年)八月のある日、晴天俄かに掻き曇り、雷雨 […]
和歌山県新宮市の名は、もちろん熊野速玉大社の別名「新宮」に由来します。熊野本宮・熊野速玉・熊野那智の各社は、まとめて「熊野三山」と呼ばれておりますが、それは神仏習合が進み、朝廷による熊野統治のための役職「熊野別当」が置かれて以降(おそらく10世紀以降)に成立した概念であり、実は夫々に異なる起源を持っています。別称の「新宮」も一見、熊野「本宮」に対しての「新宮」であるかのような印象を受けますが、実 […]
極楽坂切通の鎌倉側の「坂ノ下」にある「御霊神社」は、御祭神の鎌倉権五郎景正公にちなみ「鎌倉権五郎神社」とも呼ばれます。古くは「五霊神社」と呼ばれ豪族「鎌倉党」の一族である大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉の五氏の先祖を祀っておりましたが、遅くても文治元年(1185年)までには、後三年の役での「矢抜き」の逸話であまりにも有名な鎌倉武士の鑑・鎌倉権五郎景正公一柱のみをお祀りする神社となり、いつしか表記も「御 […]
この春にお参りした南紀熊野三社・青岸渡寺とその周辺の由緒ある神社・仏閣を「熊野三山遠征記」として数回に分けてご紹介します。第一回は、熊野三社でも筆頭とされる熊野本宮大社です。 田辺市本宮町にある熊野本宮大社(旧官幣大社・熊野坐神社(くまのにますじんじゃ))は、崇神天皇六十五年(紀元前33年)に開創され、熊野速玉大社・熊野那智大社と併せた熊野三社の首座として、神代より全国4800社と云われる熊野神 […]