那智勝浦町にある白華山(びゃっかさん)・補陀落山寺(ふだらくさんじ)は、仁徳天皇の世にはるかインドから那智浜に漂着なさった裸形上人により開山されたと伝わる古刹です。 江戸期までは那智七本願の一つ「補陀落寺」として知られ、文化五年(1808年)に台風で倒壊するまで大伽藍を構えていました。もともとは真言宗でしたが、明治期に青岸渡寺の別院となって以降は、天台宗の寺院として存続しています。 実は私の地元の […]
筑波山・大御堂は、茨城県つくば市にある真言宗豊山派のお寺で、坂東三十三観音霊場の第二十五番札所をお務めです。大御堂の前身に該る旧・筑波山知足院中禅寺は、開山・徳一上人以来、男体山・女体山の両筑波山をご神体とした筑波山大権現の本地仏である千手観音をお祀りする大寺院として栄えて来ました。江戸期になりますと、徳川将軍家の祈祷を担うようになり、将軍家光公の時代には七堂伽藍が整備された他、江戸にも「知足院 […]
那智山・青岸渡寺(せいがんとじ)は、那智勝浦町にある天台宗の寺院で、西国三十三所第一番札所として知られています。開基は、はるかインドから熊野浦に流れ着いた裸形上人(らぎょうしょうにん)とされ、仁徳天皇の御世にまで遡ります。さらに200年後の推古天皇の御世には、生仏上人により如意輪観音が安置され堂宇が整えられました。那智山には、「那智七先徳」をはじめとする多くの高僧が参籠し、11世紀から12世紀に […]
妙法山・持宝院・星谷寺は、神奈川県座間市にある真言宗大覚寺派のお寺です。江戸期には海老名の総持院の末寺で、すぐ近くの県営・座間谷戸山公園の中で現在は「伝説の丘」と名付けられている「本堂山」にあった「観音堂」を起源とします。また星谷寺の境内にまつわる「星谷寺の七不思議」は、坂東三十三観音霊場巡礼者の間でよく知られています。 なお星谷寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては […]
熊野本宮大社・熊野速玉大社とともに熊野三山を構成する現在の熊野那智大社は、仁徳天皇の五年( 317年)に、現在の別宮・飛瀧神社(ひろうじんじゃ)の地より、那智山中腹に遷り成立しました。 さらに遡ること千年、「神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇」の東征(紀元前662年)の折、「丹敷浦(にしきうら)=那智の浜」より、神光を放つ「光ケ峯」を目指し那智川を遡上する中、目の前に現れた雄 […]
和歌山県新宮市の名は、もちろん熊野速玉大社の別名「新宮」に由来します。熊野本宮・熊野速玉・熊野那智の各社は、まとめて「熊野三山」と呼ばれておりますが、それは神仏習合が進み、朝廷による熊野統治のための役職「熊野別当」が置かれて以降(おそらく10世紀以降)に成立した概念であり、実は夫々に異なる起源を持っています。別称の「新宮」も一見、熊野「本宮」に対しての「新宮」であるかのような印象を受けますが、実 […]
この春にお参りした南紀熊野三社・青岸渡寺とその周辺の由緒ある神社・仏閣を「熊野三山遠征記」として数回に分けてご紹介します。第一回は、熊野三社でも筆頭とされる熊野本宮大社です。 田辺市本宮町にある熊野本宮大社(旧官幣大社・熊野坐神社(くまのにますじんじゃ))は、崇神天皇六十五年(紀元前33年)に開創され、熊野速玉大社・熊野那智大社と併せた熊野三社の首座として、神代より全国4800社と云われる熊野神 […]
岩殿寺は、大和国長谷寺の徳道上人が、この地に下向した際、十一面観世音菩薩と熊野権現が顕現し、そのお告げにより社を建てたのが始まりとされ、その後、巡錫の折に同じく奇瑞を得た行基菩薩が、奥の院に安置される十一面観世音菩薩像を彫った養老五年(721年)をもって開創とされています。徳道上人は鎌倉・長谷寺の開山としても知られていますが、鎌倉・長谷寺の開創は天平八年(736年)ですので、伝承上、岩殿寺の開創は […]
天長元年(824年)淳和天皇の代に、天台宗山門派の祖、慈覚大師・円仁により現在のさいたま市岩槻区に開かれた華林山・最上院・慈恩寺の名は、慈覚大師が入唐の際に遊学した長安(現在の西安)・大慈恩寺に由来します。行基や空海が全国至る所の寺院の開山・開基に名を連ねているように、慈覚大師は、出身地の下野国を始めとした北関東から東北地方にかけての多くの寺社の縁起にその名を残しています。慈恩寺は、創建以来、江 […]
真言宗豊山派に属する海上山(かいじょうざん)千葉寺(せんようじ)の創建は和銅二年(709年)と極めて古く、千葉市内では最古の寺院です。巡錫の折にこの地に立ち寄った行基が、一本の茎に二つの花を咲かせ、その花の中で阿弥陀如来と観音大士が説法している蓮を見て、丈六の十一面観音像を刻み堂宇を建て安置したのがその始まりとされます。行基はさらに聖武天皇に奏聞して「海照山」の山号と「三界六道」の勅額を得て本堂 […]