鎌倉・大町釈迦堂口遺跡◆暫定公開~日月やぐら・地蔵やぐら・唐糸やぐら・釈迦堂切通~

鎌倉・大町釈迦堂口遺跡◆暫定公開~日月やぐら・地蔵やぐら・唐糸やぐら・釈迦堂切通~

大町釈迦堂口遺跡は、鎌倉市の南東部「名越ケ谷(なごえがやつ)」の最奥部にあり、発掘が進められた平場2カ所と、日月やぐら・地蔵やぐら・唐糸やぐらといったやぐら群から構成される遺跡です。鎌倉市が所有するまでは、ドイツ人ハンス・シュリーブス氏の邸宅や国際自動車(kmタクシー)の保養所でしたので、鎌倉期の遺跡とは別に、かつての保養所の庭園に関係する遺物も残っております。平成22年(2010年)に国史跡に指定され、日本遺産『いざ、鎌倉』の構成文化財にも認定されています。

暫定公開要領

大町釈迦堂口遺跡の危険木伐採・転落防止柵の設置等の整備が一部完了したことから、以下の要領で暫定公開されました。
【実施期間】 令和8年(2026年)2月26日~3月11日
【公開時間】 各日10時から16時まで
【公開範囲・内容】
・整備が完了した範囲(地蔵やぐら・唐糸やぐら、日月やぐら等)を公開。
 ・史跡内を案内するガイドツアー。

経路

大町のローソン横の道をまっすぐ進みます。

途中、花咲橋を右に見ながら道なりに。

まっすぐ行くと現在通行止めとなっている釈迦堂口切通に向かう交差点を右に曲がります。今の季節、木蓮がきれいです。

遺跡に到着しますと正面に、石段が見えますが、これは後世に設置されたもので、釈迦堂口遺跡とは直接関係ありません。

釈迦堂口遺跡全体像

釈迦堂口遺跡は、下図のような感じです。遺跡の北側はハイキングコースとして親しまれている衣張山で、その南山麓にやぐら群が広がっています。遺跡の北側平場は発掘され石積みなどが見つかっています。この場所は長らく北条時政の名越亭跡と云われてまいりましたが、鎌倉初期にはどうやら寺院等の宗教施設があったものと思われます。

北側平場入口左手前のやぐら

こちらのやぐらには、特に五輪塔等は残されていません。

受付

こちらが受付で、冊子を頂けました。

北側平場内左手のやぐら

敷地に入ってすぐ左手にあるL字型のやぐらです。手作業で加工した素朴なつくりの大小の五輪塔が並んでいます。

北側平場

北側平場を南側から見るとこんな感じ。

逆に北側から見るとこんな感じ。中央の少しくぼんだ場所が、発掘された場所です。

スズランが咲いていました。

北側平場右奥のやぐら

北側広場の右奥の少し高いところにあるやぐらです。

墓碑ですので、梵字で「阿」字が刻まれています。

地蔵やぐら・唐糸(からいと)やぐらへ

こちらの石段を上がると、地蔵やぐら・唐糸やぐらに出ます。

地蔵やぐら・唐糸やぐら

並んで右側が唐糸やぐら、左側が地蔵やぐらです。

唐糸やぐら

こちらが、木曾義仲家臣・手塚太郎金刺光盛の娘唐糸が、頼朝の命を狙い失敗し幽閉されたとされる「唐糸やぐら」で、「唐糸草子」(鎌倉末期から江戸期にかけての短編の絵入り物語「御伽草子」に収められています)の一コマとなっています。石牢であったため、中には何も置かれていません。

以前は、木の格子でも嵌められていたのでしょう。入口部分に溝が掘られています。

◆唐糸草子
京都に攻め上った木曽義仲が平家を京から追い払った頃、鎌倉の御所方の女房に義仲の家来・手塚太郎金刺光盛の娘・唐糸がおりました。頼朝が義仲追討の命を下したことを知った唐糸は、義仲に「すきを見て頼朝の寝首を掻くので、成功のあかつきには父・手塚太郎に信濃と越後の二国を下さい。また義仲様の家宝の脇差を頂ければ、それで頼朝を討ちます。」と知らせました。義仲はこれを喜び「首尾よく成功したら関東八ヶ国を与える。このこと人に知られるな。」との手紙を脇差「ちゃくい」と共に唐糸の元へ送りました。唐糸はこの脇差を肌身離さず機会を伺っていましたが、頼朝とその妻政子のお風呂の世話をした折に、隠し持っていた脇差を見つけられてしまいました。唐糸は松が岡の尼寺に一旦預けられましたが、続いて義仲の手紙が発見されると、「唐糸やぐら」に捕らわれてしまいました。 信濃国手塚にいた唐糸の娘・万寿姫はこの話を伝え聞き、母を救うべく鎌倉に上り、出自を隠して頼朝の屋敷で働くようになりました。鶴岡八幡宮の神前に舞を奉納する十二人の舞姫の一人に選ばれ今様を舞う万寿姫を、いたく気に入った頼朝は「褒美に如何なる望みのものも取らせる。」と告げました。すると万寿姫は「実は、私は石牢に捕らわれている唐糸の娘で、万寿姫と申します。母に代わり私が石牢に入りますので、母を助けて下さい。」と涙ながらに申し出ました。これを聞いた頼朝は、親子共々信濃に帰ることを許し、信濃で心労の余り病の床に着いていた祖母も、二人の無事な姿を見ると元気になったというお話です。

地蔵やぐら

こちらが地蔵やぐらです。中央の地蔵像は、置かれたものではなく、周囲の岩盤より切り出されています。また頭部は、失われていたものを後世に復元したものです。

太鼓橋

かなり傷んでおり、現在は利用できませんが、国際自動車が所有していた頃は、実際に使われていました。もちろん鎌倉期の遺跡とは関係ありません。

少し見えにくいですが、太鼓橋を渡った左手の岩の上には四阿が残されています。これも国際自動車時代の遺物のようです。

日月やぐら群へ

現在は、丈夫な手すりが設置されておりますが、これは昨年整備されたばかりの設備です。

釈迦堂口切通

釈迦堂口切通は昭和52年(1977年)以来長らく通行禁止となっていましたが、隧道に至る道路斜面の崩落対策工事及び道路工事が行われ、令和8年度(2026年度)中に約40年振りに通行再開が予定されています。切通の名前の由来となった釈迦堂は鎌倉三代執権の北条泰時が、父・義時の菩提を弔うために建てたお堂でした。ご本尊であった釈迦如来立像は、どのような経緯か定かではありませんが、一旦は鎌倉・杉本寺に安置された後、現在は東京都目黒区の大円寺のご本尊となっており、国の重要文化財に指定されています。

鎌倉市サイトにリンク

切通の上部は、このようになっており、地蔵やぐらから日月やぐらに続く歩道が通っております。

下のアーチ部分は、令和5年(2023年)の切通の崩落防止のための薬剤注入工事の跡です。

日月(じつげつ)やぐら

「日月やぐら」は、7個ならんでいる「日月やぐら群」のうち右から三番目の3号やぐらを指します。「日月やぐら」の名称は、昭和28年(1953年)に、当時この地を所有していたハンス・シュリーブス氏の依頼を受けて発掘調査した在野研究家・八幡義生氏(鎌倉やぐら群に造詣が深く多くの論文・著作を残していらっしゃいます)により付けられました。

写真の右端の竉(納骨穴)は、丸くくり抜かれており「日輪」に、左端の竉は三日月状にくり抜かれていることから「月輪」に見立てられ、「日月やぐら」と名付けられました。

日月やぐら群の先は、立入禁止となっており全く整備されておりませんが、衣張山の西側の稜線を辿れば、北条一門が自害した東勝寺や北条一門の菩提を弔う宝戒寺方面に続きます。

最後までご覧いただきありがとうございました。今回は極めて短期間の暫定公開ではありましたが、これまで一度も足を踏み入れたことのなかった釈迦堂跡地を興味深く拝見できました。