阿弥陀寺(熊野妙法山)◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第十一回)~女人高野・火生三昧跡・ひとつ鐘まいり~

阿弥陀寺(熊野妙法山)◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第十一回)~女人高野・火生三昧跡・ひとつ鐘まいり~

古くは上生院と号した熊野妙法山阿弥陀寺は、熊野那智大社のさらに奥、那智山スカイラインを登った妙法山にある真言宗御室派のお寺で、大宝三年(703年)に唐の天台山より来朝した蓮寂上人により開山されました。さらに弘仁六年(815年)には、弘法大師・空海が中腹に阿弥陀如来を安置したお堂を建てたことから阿弥陀寺と名付けられ、以来法華経修行の道場として、また女性の参拝が許された「女人高野」として知られてきました。その後、鎌倉時代に心地覚心(法燈国師)により再興され、熊野比丘尼を統括する那智七本願の一つとして栄えました。法燈国師は、中国に渡り学んだ臨済宗の僧として知られていますが、同時に東密(真言密教)・台密(天台密教)に通じた密教僧でもあり、京都と和歌山に多くの事績を残しています。

境内図

熊野那智参宮曼荼羅

熊野比丘尼(くまのびくに)の絵解きに用いられていた熊野那智参宮曼荼羅にも、阿弥陀寺は描かれており、左上隅にある阿弥陀堂・弘法大師堂・三寶荒神社が該当します。

こちらは、寛政十二年(1800年)に刊行された紀伊名所図会の中の阿弥陀寺境内図です。ご本堂・鐘楼・手水などは、現在と同じ場所に確認できます。

紀伊名所図会・阿弥陀寺境内

ご詠歌

阿弥陀寺には、熊野詣のまさに本質を詠んだ三首のご詠歌があります。
一首は「ご本尊・阿弥陀如来のご詠歌」で「熊野路を ものうき旅と おもうなよ 死出の山路で 思ひしらせん」、次の一首「奥の院 釈迦如来のご詠歌」は少し長くて「ここも旅 またゆく先も 旅なれや 鳥は池辺の木に宿る 魚は月下の波にふす 人はなさけの袖の下 我には宿る家もなし いづくの土に 我やなるらん」とあります。三首目は「ひとつがねのご詠歌」で「空海の教えの道は 一つがね 彌陀の浄土へ ともに南無あみ」

大まんじ

下の航空写真の中央上部が、ご本堂他の建物群で、中央の弓型の草地が見晴台です。写真中央下部の大きな卍は、妙法山のランドマークとして遠くから眺めることができます。昔、地元の漁師は、この妙法山を頼りに、海上での方角を見定めたそうです。卍のすぐ下の車道は昭和49年(1974年)に開通した那智山スカイラインです。

阿弥陀寺パンフレットより

参道石段

熊野を参った死者の霊は、「ひとつ鐘」を撞くために、この石段を登って行きます。

死者の霊が手にする樒(しきみ)の杖ではありませんが、生者の参拝者のために竹の杖が置かれています。

石段の上の輝きは、極楽浄土へと続くのでしょうか。

月見原

駐車場の少し上手、熊野大鳥居門に向かう石段の登り口の右手に展望が開けた「月見原」があります。

那智勝浦町や太地町の街並みや港が遠望できます。

歴代住持墓

阿弥陀寺歴代住持の卵塔です。

平和塔

戦没者慰霊碑「平和塔」です。少し古い石材に見えますがネーミングからするとおそらく大東亜戦争の戦没者の慰霊のために建てられたものだと思われます。

大鳥居門前

阿弥陀寺の最盛期には、この参道の両脇にも建物が並んでいたものと思われます。

「禁葷酒」と書かれた結界石です。仏道修行の妨げになる香りの強い野菜(ニラやニンニクなど)や飲酒を禁じています。

熊野三山の各主祭神、家都美御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神を指して熊野三社大権現と呼びます。

大鳥居門

落ち着いた風景の中で、ひときわ目立つ真っ赤な鳥居門で「妙法山」の山号額が掲げられています。もともとは鳥居そのものだったのかもしれません。神仏相和すかつての日本における信仰の形を今に残します。

ひとつ鐘

江戸時代の延宝6年(1678年)に再鋳されたこの鐘は「ひとつ鐘」と呼ばれています。死者の霊は、枕飯三合が炊き上がる間に、枕もとの樒(しきみ)の杖を手に熊野に参り、ここ阿弥陀寺の「ひとつ鐘」を撞いて行くため、人影もなく鐘が鳴ることがあるそうです。

ご本堂

こちらがご本堂です。前のご本堂は、庫裡と共に、昭和56年9月原因不明の火災で全焼したため、その後新しく建てられました。元の御本尊阿弥陀如来像は鎌倉初期の作で、有名な運慶 快慶の慶派の作でしたが、この火災の折に残念ながら焼失してしまい、現在のご本尊は、写真を元に、京都の大仏師、故・松久宗淋師が復元したものです。ご本堂には、他に不動明王、千手観音、役の行者等が祀られています。

本堂前庭

本堂前の庭には、小石が敷き詰められています。

こちらの燈籠は、昭和58年(1983年)に新宮にお住いの有志から寄進されました。

水屋もない小振りな手水鉢が、参道の石畳沿いにぽつんと置かれています。江戸期には、この場所に手水舎が置かれていました。

こちらの宝篋印塔は「世界平和祈願之塔」で、昭和40年(1965年)に建てられたものです。

こちらは、大乗妙典一字一石塔です。法華経を一つの小石に一文字づつ写したものが収められています。

みちびきかんのん

こちらは昭和47年(1972年)に奉納された「みちびき観音像」です。

子安地蔵堂

子供を授かりたいという願いを叶えてくれるお地蔵様です。現在、千躰のお地蔵様を堂内に奉納する途上にあります。

奥之院浄土堂

大宝三年(西暦703年)唐の天台山より渡来した蓮寂上人が、妙法蓮華経を山頂に埋め、立木彫の釈迦像を安置したのが「奥之院」で、それ以来「妙法山」と呼ばれるようになりました。奥之院参道入口には釈迦如来像が立ちます。

阿弥陀寺サイトにリンク

こちらは、紀伊名所図会の中の樒山(しきみやま)の図で、中央の上部に奥の院も描かれています。ご本堂・鐘楼・手水などは、現在と同じ場所に確認できます。

紀伊名所図会・樒山の図

人民解放運動戦士の碑

こちらは昭和40年(1965年)にたてられた「人民解放運動戦士之碑」です。和歌山県太地町出身で、米国で活躍した画家で左翼活動家の石垣栄太郎が、弟の陸一とともに祀られています。

大師堂

宝形造(ほうぎょうづくり)の小振りな大師堂は、永正六年(1509年)に建立されたものです。中には弘法大師の等身大の坐像が祀られていますが、こちらは弘法大師が42歳の厄年を迎えた際のお姿を刻んだ、所謂「厄除け大師」です。毎年4月20日の「御影供」と6月15日の「青葉祭り」には、ご開帳されます。

阿弥陀寺サイトにリンク

納骨堂

こちらには多くの遺骨・遺髪が収められており、現在でも「お髪上げ」の儀式により、生前に切られた髪が収められています。

阿弥陀寺サイトにリンク

火生三昧跡

平安期、唐僧・応照上人が、衆生の罪を一身に引き受け、生きながら自身の体を焼く「火生三昧」の行を修した炉の跡です。このお話は仏教説話集「法華験記」でも「是れすなわち日本国最初の焼身なり」と紹介されています。また熊野には、永興禅師を訪れた一人の禅師が、崖から逆さ吊りのまま死んで三年間、白骨化しても舌は腐らずに成仏することなく経文を唱え続けたというお話も伝わっております。お釈迦様は、こうした難行苦行は決して悟り・解脱への道に繋がるものではないと繰り返し説かれていますが、チベット・中国を経てこの国に伝来した密教を極めた行者は、その人並外れた法力を世に顕して来ました。苦行の末この世を離れるその瞬間に、タイミングよくこの強烈な「執着」までも手放すことはできたのでしょうか。

三寶荒神堂

三寶荒神堂は、紀州徳川家初代頼宜公が勧請した三寶荒神を、妙法山の鎮守としてお祀りします。こちらのご本尊は三面六臂の憤怒像です。

祭礼と行事

1月1~5日 修正会
1月21日 初大師
2月3日 星供祈祷会
3月17~23日 春季彼岸会
4月20日 御影供お逮夜
4月21日 御影供
6月15日 青葉祭り
8月7~15日 盂蘭盆会
9月19~25日 秋季彼岸会
11月28日 三宝荒神祭
12月21日 納め大師

アクセス

住所 〒649-5453 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町南平野2270-1
電話 Tel:0735-55-0053 Fax:0735-55-0726
URL https://www.myohozan.jp/

【公共交通機関】
JR紀勢本線 紀伊勝浦駅より車で30分
【車】
紀勢道那智勝浦IC → 県道43号 → 県道46号
駐車場有(無料) 。

最後までご覧いただきありがとうございました。熊野の人々の死後の安らぎへの願いを受け止め続けて来た阿弥陀寺の境内は、亡者の霊が漂う独特の気に満たされていました。