鎌倉・窟堂(いわやどう)◆境内散歩◆~岩窟不動尊~
- 2021.07.24
- 境内散歩
窟堂(いわやどう)・岩窟不動尊は、川喜多映画記念館から横大路(宝戒寺から鶴岡八幡宮前を西に抜け、さらにJR横須賀線を渡り今小路に至る)を少し西に進んだところにあります。平安期・鎌倉初期に三方を山に囲まれた鎌倉の中心地に大船方面から入るには、北鎌倉駅横の十王橋を過ぎたところを右折して源氏山・化粧坂を経由し、さらに川喜多映画記念館前を東西に通る横大路の北側の山の上を通過して、鶴岡八幡宮の西側に抜けるルートが一般的でしたので、巌窟はその街道沿いの山の上にあったらしいのですが、地震で街道が崩壊したため、現在地に移ってきました。明治期までは源頼朝の菩提寺とされていた松源寺の管理下にあり、松源寺が火災が原因で廃寺となって以降は、地元の皆さんに守られながら今日に至っています。なお源頼朝が伊豆より勧請し松源寺に祀られていた日金地蔵は、鎌倉二十四地蔵尊の一つとされていますが、現在は、横須賀の東漸寺に祀られています。
境内の様子
ラーメン屋さんの入り口かと思いきや、幟がはためくと「巌窟不動尊」の銘板が現れます。
左手のブロック塀沿いには、庚申塔や五輪塔が並んでいます。
そして、手水鉢。コロナ前の写真ですのできちんと水を張っています。
こちらがお不動明王をお祀りしている祠です。不動明王はご存じの通り密教の仏様なのですが、祠の前には鳥居があります。この国に根付いていた神仏混然一体の宗教観は、相互の差異をあるがままにしかも矛盾なく平等に受け入れる、まさにお釈迦様の説く無差別の境地の現れでした。自他の峻別に拘泥する西洋の「宗教」概念では包摂しきれない悟りの世界にも通ずるこうした独特の宗教風土が、 西洋文明の独善的な文化的・学術的干渉にさらされ、わずか百数十年の間に崩れ去って行く姿は、日本人として見るに忍びありません。諸行無常。仏の世さえエントロピーの増大に抗えぬ泡沫の夢でしかないのでしょう。
こちらがご本尊です。胸のあたりを横切る大きな修復の跡が残っています。
巌窟不動尊を管理する「不動茶屋」に置いてあった由来書によると、弘法大師の作と云われていた当初のご本尊は、窟屋奥の壁に彫られていましたが、風化が進んだため、現在のご本尊が後に製作され、祠に祀られるようになったそうです。まるで窟屋の壁面のご本尊を切り出したかのように、独立した石仏にしては、どことなく平面的な造りです。
ご本尊の祠の左手には、青銅製のお不動様が祀られています。
こちらは、祠の右奥にある大きな岩壁の根元に開いた窟屋で、現在は金網が張られています。
内部はこんな感じです。
こちらは、祠に向かって右の側面に置かれている「重軽石(おもがるいし)」です。
不動茶屋
巌谷不動尊の参道右手には、ケーキ&ラーメンのお店「不動茶屋」があります。
お店の方にお願いすると、お不動様の御朱印を頂けます。
愛宕社への石段
巌窟不動尊から、建物を挟んで右手にある急な石段を上るとその先に愛宕社という小さな祠があります。こちらも昔は松源寺が管理していたそうですが、防災の神様を祀った愛宕社を残し松源寺が焼失したというのは何か因縁めいたものを感じます。
最後までご覧いただきありがとうございました。長い時を経て、今なおこうして残される神仏には、時代時代の数知れぬ参拝者夫々の思いが込められています。
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