三ノ鳥居◆鶴岡八幡宮・境内散歩(その4)◆
- 2019.03.02
- 境内散歩
「 三ノ鳥居」は、鶴岡八幡宮の境内入口・横大路に面して立つ大きな鳥居です。一ノ鳥居、ニノ鳥居と同じく、源頼朝が治承四年(1180年)に造営し、寛文八年( 1688年)に 将軍・徳川家綱が石造に建替えました。 関東大震災で倒壊した後は、昭和2年(1927年)1月にコンクリートで再建され、昭和10年(1935年)には塗装工事を終えました。
なお鶴岡八幡宮のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒鶴岡八幡宮へ
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現在の三ノ鳥居
鎌倉駅東口付近のニノ鳥居から続く「段葛」の終端は鶴岡八幡宮正面の横大路に接しており、横大路の横断歩道を渡ると、目の前に三ノ鳥居が聳えます。 江戸時代の絵図には「一ノ 鳥居」と表記されているものもありますが、少なくとも現在は「三ノ鳥居」と呼ばれています。
祭礼がある日などは、鳥居の西柱の前に案内板が立ちます。
正月
春
秋
師走
関東大震災と三ノ鳥居
明治初期
徳川家綱が造営した石鳥居のままの明治の始め頃の三ノ鳥居です。鳥居のすぐ後ろは太鼓橋で、この頃は現役で使用されていました。向こうに小さく見える鳥居は、鶴岡八幡宮寺が廃されるまで仁王門があった場所に建てられていた境内の鳥居です(今は、ありません)。遠くの低い方の屋根は「舞殿」で、高いところにある建物は「楼門」です。
大正初期
段葛の桜並木の向こうに見えるのは、関東大震災前の石造の三ノ鳥居です。
関東大震災被害
関東大震災で笠木と貫が落ちた三ノ鳥居です。
爆弾三勇士表勲碑
上海事変で身を挺して武勲を立てた爆弾三勇士を讃える碑で、陸軍大臣・荒木貞夫の筆です。戦後GHQの追及を避けるために「鎌倉山神社」近くのひっそりとした山中にありますが、もとは「帝国ホテル」直営の社交場「交詢閣」(通称「鎌倉山ロッジ」) の敷地内にありました。この石材は、関東大震災で壊れた鶴岡八幡宮・三ノ鳥居の東柱を再利用しており「御再興 鶴岡八幡宮●●●●(おそらく『石雙華表(せきそうかひょう)
』 )」の銘が残っています。
鎌倉山ロータリー石碑
市道大船・西鎌倉線から「さくら道」に上がる鎌倉山住宅地入口のロータリーに立つ「鎌倉山」の石碑は、鎌倉山に別荘地を拓いた菅原通済が立てたものです。この石材は、関東大震災で被害を受けた鶴岡八幡宮三ノ鳥居の西柱を再利用しています。
最後までご覧いただきありがとうございました。これで若宮大路の三つの大鳥居についての記載を終えますが、関東大震災が鎌倉の寺社に及ぼした大きな被害についても調べてみるきっかけとなりました。
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