鎌倉・教恩寺◆境内散歩◆

鎌倉・教恩寺◆境内散歩◆

教恩寺は、下馬四つ角から大町通りを逗子方面に進み、JR横須賀線・大町踏切を渡って100mほど先の小路を左折した突当りにあります。地理的には目立たず、こじんまりとした印象ですが、江戸時代には大町踏切の反対側の延命寺と寺域を接していたということですので、相応の広さの境内をお持ちだったようです。この場所には、もともと善昌寺という光明寺の末寺があったそうですが、江戸時代の中期に廃寺となったため、光明寺の中にあった教恩寺(開基:北条氏康、開山:知阿上人)が、貴誉上人の代に移転してきたということです。光明寺の中にあった頃の山号は宝海山でした。創建当時は浄土宗のお寺だったようですが、現在は時宗で、遊行寺の末寺となっています。

なお教恩寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒教恩寺へ

※写真をクリックすると拡大します。

教恩寺の魅力

◎神奈川県文化財に指定される伝・運慶作の御本尊「阿弥陀如来三尊像」

◎「阿弥陀如来三尊像」にまつわる平重衡と千手前の悲話

境内の様子

周囲を住宅に囲まれた小路を進んだ正面に山門があります。。

山門を入るとタブの木の枝が前を横切ります。

参道脇に、瓦葺きだった頃のご本堂の立派な鬼瓦が保存されています。

正面にご本堂があります。ご朱印は左脇の受付からお願いできます。

ご本堂内部の様子は、こんな感じです。正面に、ご本尊の「阿弥陀如来三尊像」(神奈川県指定文化財)が安置されています。運慶作と伝えられていますが、快慶作との説もあるようです。この像は、源平の合戦の折、一ノ谷の戦いで捕虜になった平重衡に対し、平家の菩提を弔うようにと、源頼朝が与えたものと伝えられています。なお、鎌倉三十三観音霊場の札所本尊の「聖観音菩薩像」は秘仏とされ、公開されていません。

◆平重衡と千手前の悲話
捕虜になった平重衡の無聊を慰めるため、源頼朝の命により、今の教恩寺の場所で宴が催され、官女である千手前(せんじゅのまえ)もその席で琵琶を弾くなどしました。その後、千手前は重衡の下に留まり、重衡が奈良・興福寺に引き渡されるまでの1か月半の間共に過ごしましたが、重衡は奈良・興福寺に到着して間もなく木津川で斬首されてしまいました。「吾妻鏡」では、千手前は亡き重衡を想いつつ、その三年後に鎌倉で亡くなったとされており、「平家物語」では、出家して信濃国善光寺で重衡を弔ったとされています。なお、能の演目「千手」はこの話を描いたものだそうです。

山門の内側に、勝軍地蔵が祀られていました。鎌倉時代以降、武将達の信仰を集めた勝軍地蔵は、一般には不動明王や愛染明王と同じく、額の「第三の眼」が個性的なお地蔵様ですが、教恩寺の勝軍地蔵の場合、額の部分が削られたような感じで鮮明ではありません。また鎧兜を身にまとい馬に跨った姿をなさっていることが多いのですが、袈裟を身に纏った立像のように見えます(上半身だけが残されていますのではっきりとは分りませんが・・・)。

勝軍地蔵の隣には古い石仏が並んでいました。

こちらは、永代供養墓の「和敬塔(わけいとう)」です。最近建立されたようです。

庫裡と、その前の庭園は、こんな感じです。

初秋の境内には、ピンクの酔芙蓉と、赤い木槿が咲いていました。

最後までご覧いただきありがとうございました。
この投稿を書くまで、平重衡公の名が、教恩寺さんと絡んでで出て来るとは思いませんでした。それにしても、鎌倉のお寺は「深い」です。

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