鎌倉・建長寺◆境内散歩(その2)◆仏殿・法堂・震災供養塔・巨福稲荷

鎌倉・建長寺◆境内散歩(その2)◆仏殿・法堂・震災供養塔・巨福稲荷

「鎌倉・建長寺・境内散歩(その2)」では、参拝者の多くがお参りする建長寺の伽藍の中枢 「仏殿」と「法堂(はっとう)」を中心にご紹介いたします。「仏殿」は、建長寺の主要な諸仏をお祀りするための建物で、御本尊の地蔵菩薩坐像もこちらに鎮座します。また「法堂(はっとう)」は、住職が修行者(僧衆)を集めて説法をするための場所で「三仏忌(降誕会・成道会・涅槃会)」を始めとした様々な儀式がこちらで執り行われます。 なお「仏殿」も「法堂」も共に国の重要文化財に指定されています。

なお建長寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒建長寺

境内図

中庭・柏槇(びゃくしん)の庭

三門を抜けて仏殿に至るあたりが「中庭」で、創建当時は東側に「庫院」西側に「大徹堂(だいてつどう)」がありました。 参道の両脇に「柏槇(びゃくしん)」 大木が植えられていることから「柏槇(びゃくしん)の庭」とも呼ばれています。寺伝では、これらの柏槇は、蘭渓道隆(大覚禅師)の御手植えとされています。

正面・仏殿

中でも仏殿に向かって左側にある大木三本のうち真ん中の木は、樹齢750年を越える大木で「神奈川の名木百選」に選ばれると共に、鎌倉市の指定天然記念物ともなっています。また毎年ゴールデンウィークの頃には、中庭から嵩山門の内側にかけて豪華な牡丹が楽しめます。

仏殿の前には、銅製の燈籠等が並んでいます。

水盤
燈籠
香炉
献灯台

仏殿

「仏殿」は、建長寺が創建された際に、最初に建てられた建物で、当初は東側に「土地堂(つちどう)」、西側に「祖師堂(そしどう)」が建てられていました。創建後何度か建て直されていますが、現在の「仏殿」は、沢庵宗彭の働きかけにより東京・芝増上寺にあった徳川二代将軍・秀忠室の崇源院(於江与の方)の霊屋を正保四年(1647年)に譲り受けたもので、方五間・重層の堂々とした寄棟造です。

仏殿・表
仏殿・ 裏

大分色あせてはいますが、将軍室・崇源院の霊屋らしく内部は、全て豪華な漆塗りで、金彩の天井画や天蓋も立派なものです。同時代に造営された日光二社一寺(東照宮・二荒山神社・輪王寺)のデザインにも通じるものがあります。

仏殿・天井画
仏殿・天蓋
仏殿・鳳凰の透彫り

御本尊の地蔵菩薩坐像は、応永二十一年(1414年)の火災後に再興されたものと考えられています。一般に鎌倉の禅宗のお寺では釈迦如来が御本尊とされることが多いですが、この場所が地獄谷と呼ばれる刑場跡であったことから、亡者追善供養の意味を込めて地蔵菩薩を御本尊としたものと考えられています。

仏殿の右奥の仏壇は「土地堂(つちどう)」と呼ばれ、開創当初独立した建物であった「土地堂(つちどう)」に相当する位置付けとなっています。こちらには国の重要文化財に指定されている五体の伽藍神が祀られ、立像二体が「掌簿判官」「感応使者」、坐像三体が「張大帝」「大権修理」「招宝七郎」とされていますが、「大権修理」と「招宝七郎」 は、何れの像がそれに相当するのか確定できておりません。特に「大権修理」は一般的には手を額にかざす物見のポーズが特徴的なのですが、こうしたポーズを取った像がないことから判別が困難になっているようです。

掌簿判官 感応使者
不明張大帝不明

以上の写真は「鎌倉の文化財」より

仏殿の左奥の仏壇は、創建当初の「祖師堂」に相当するもので、臨済義玄を始めとする高僧の位牌や頂相が安置されています。また、東側の内壁奥には、千体地蔵菩薩及び建長寺の創建以前にこの地にあった心平寺の旧御本尊「心平地蔵」が祀られています。なお「心平地蔵」が祀られていた旧・心平寺地蔵堂は、もともと巨福呂坂を上がったところにありましたが、県道の工事に際して立ち退き、今は横浜・三溪園内に移築されています。

こちらは、仏殿前に置かれている鳩除けのフクロウ像で、智慧の象徴とされています。不思議なことですが西洋・ギリシャ文明でもフクロウは智慧の象徴とされています。ルーツを辿れば、意外と同じところに遡るものなのかも知れません。

法堂(はっとう)

法堂(はっとう)は、建長寺を代表する建築物の一つで「三仏忌(降誕会・成道会・涅槃会)」を始めとした様々な儀式で使用されています。現在の建物は、文化十一年(1814年)に上棟された方三間・入母屋造・銅板葺の大きなもので、関東では最大のお堂です。

法堂・左前
法堂・正面
法堂と枝垂れ桜

法堂の扁額「海東法窟 」は明の竹西の筆で、今は廃止された旧・東外門に掲げられていました。

正面の須弥壇上には、法堂のご本尊・千手観音像が祀られています。

観音様の前立は、ラホール中央博物館の釈迦苦行像のレプリカで、パキスタン政府から寄贈されたものです。愛知万博の際にパキスタンが出展していたものだそうです。

天井の雲龍図は、地元鎌倉出身の小泉淳作画伯の力作で平成二十二年(2000年)の作品です。小泉画伯は、この作品をステップに、京都・建仁寺の「双龍図」、東大寺の本坊・襖絵を描き上げました。

法堂内・右側のスペースには、平成二十一年(2009年)に完成した華厳小宝塔(けごんしょうほうとう)が置かれ、内部には塔の御本尊として毘盧遮那仏が安置されています。なお、建長寺の創建当初、現在の河村瑞賢墓の場所には七重の大華厳塔が建っていました。

法堂の西の壁には、儀式に際して僧衆が履く「出頭沓」が並んでいます。

こちらは、宝物風入れの日に、法堂内で執り行われた法話会の様子です。

法堂にも鳩除けのフクロウが置いてありました。

震災追憶供養塔

「柏槇の庭」の西側にある「震災追憶供養塔」は、関東大震災の被災者を追悼するために昭和五年(1930年)に建立された相輪塔です。塔の前には「曙観音」がいらっしゃいます。

震災追憶供養塔・五月の新緑
「震災追憶供養塔碑」・ 題額は当時の山階宮武彦殿下の筆

この付近は季節の花の移り変わりが楽しめます。

震災追憶供養塔・寒椿
震災追憶供養塔・梅
震災追憶供養塔・桜
震災追憶供養塔・盛夏

巨福稲荷大明神

三門の西側、鎌倉学園の北側の石段の上にあるお稲荷様です。建長寺の
かつての鎮守としては四方中央鎮守(東八幡・西子神・南第六天・北熊野・中央五大尊)が知られていますが、以前は、そのうちの中央五大尊が鎮座なさっていました。半蔵坊ができるまでは、こうした稲荷社や第六天社が建長寺の鎮守でした。なお巨福稲荷では、毎年二月の初午の日に祭礼あります。

鎌倉学園

明治十八年(1885年)に、若年の修行僧の一般教育の場として「宗学林」が創設されたことに始まり、戦後は中高一貫の男子校となりました。なお創立記念日は、建長寺開基・北条時頼の命日「時頼忌」にあたる11月22日です。4月には境内から桜越しに校舎が見えます。

最後までご覧いただきありがとうございました。建長寺のこの壮大な伽藍配置は、杭州にある中国・五山第一の「径山興聖万寿禅寺(きんざんこうせいまんじゅぜんじ)」の中国・南宋時代の伽藍を模したものです。なお「金山寺味噌」の起源はこの径山寺だそうです。